「ジャン・アンリ・ファーブル」の版間の差分

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アヴィニョン滞在の2年目に、ファーブルはモキャン・タンドンの忠告に応えて、きっぱりと数学教授資格の受験を放棄して、自然科学の道を選ぶと自然理学士号試験に臨んだ。1854年8月1日、彼は弟に手紙を書き送っている。《トゥールーズから今戻ってきたところだ。今度の試験は今までのうちで最高の出来であった。学士として承認され、審査委員から身に余る賛辞を受け、試験費用は免除された。試験内容は予想外に高度であった...》。
 
この成功は将来の目的を推進するのに大いに役立ち、次の重要な段階である博士号への道を開いた。教師は通常大学教授資格か博士号の受験を選択することができる。もしファーブルが大学教授資格試験を選ぶならば膨大な知識をもたらすが、しかし個人的な研究のほうは断念せざるを得なくなる。ファーブルにとって知識を深めるとは、同時に自分のテーマで研究することである。博士号を選んだ彼の論文の主題は《多足類における生殖器官と発達の解剖学的研究》であった。パリで行なわれた博士論文の口頭審査員は、国立自然史博物館の教授ヘンリ・ミルヌ・エドワーズ、イジドール・ジョフロワ・サンティレールと植物学者のパイエーといった錚錚たるメンバーであった。慣例により、論文には第二のテーマが必要であり、ファーブルが選んだ植物学の研究は「''Himantoglossum hircinum '' における塊茎の研究」であった。植物学においても動物学同様、ファーブルは大学独特の表現法に従った。それは厳しい規則に則った正確な書き方が要請され、文学風の文体は認められなかった。こういった紋切り型の書体を体験したファーブルは生徒にも将来のためにそれを伝授した。これらの論文が認められ、ファーブルは博物学の博士号を取得した。
これは1855年のことであり、この年はファーブルにとって研究の面では幸運な年であった。科学アカデミー主催のモンティオン生理学賞のコンクールで彼は《良》の成績を得た。それは《ジガバチ科の本能と変態の研究》で、その年の「自然科学と動物学年報」に掲載された。このテーマは後の「昆虫記」へと大きく展開していく。
1856年9月1日に書かれた未発表の観察日誌は、昆虫記の文学調とは異なり《第一試験管、アナバチの小室から取り上げたコオロギ。第二試験管、アナバチから取り上げたコオロギ。第三試験管、自分の目の前でアナバチが刺したコオロギ。》といった文体で、麻痺による肢、触角、大顎の拍動について長くて詳しい記述が続いている。また時にはもっとも観察に困難な場所での微妙な実験をすることもある。例えば、7月23日の書き込みには、数種の膜肢目の捕食昆虫を観察するために、すぐそばの台地で守備隊が的に向けて射撃の訓練をしているイサールの森に行った。《たくさんのツチバチの雄は緩慢に地面近くを飛んでいる。少数の雌はかなり強い風にあおられて、ときどき地面に叩きつけられては頭をしばらく下げたまま動けないでいる。それを見た雄は急いで雌の上に飛び降りるが、むげにも追い払われる。この出来事は射撃の採点者の防御用の小山の少し前で始まった。冬にこの辺りを掘ってみれば必ずツチバチの繭が見つかるはずである》(観察日誌の抜粋から)<ref>{{Cite book|title=Jan anri fāburu no kinoko|url=https://www.worldcat.org/oclc/674796853|publisher=同朋舎出版|date=1993|isbn=4-8104-1154-0|oclc=674796853|others=Fabre, Jean Henri, 1823-1915., Caussanel Claude., Guez, Toshie., Guez, Daniel.}}</ref>。