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以上のように、元始年間に、甄豊と甄邯は王莽の側近として台頭し、朝廷で威勢を振るい始めた。元始3年([[3年]])、[[王宇]]、[[呂寛]]、衛氏一族が誅滅される事件が起きると、甄豊は王莽の意を汲み、[[何武]]、[[鮑宣]]、彭偉などの名士・豪傑数百人を連座により死に追いやっている。
[[居摂]]1年([[6年]])3月、甄豊は太阿、右拂をも兼任し、[[孺子嬰]]を補佐する。居摂2年([[7年]])9月の東郡[[太守]][[
=== 不平の末の最期 ===
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