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'''何 夔'''(か き、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。字は叔龍。[[豫州]][[陳郡]]陽夏県(現在の[[河南省]][[周口市]][[太康県]])の出身。曾
曾祖父の何熙は[[安帝 (漢)|安帝]]時代の車騎将軍である。[[宦官]]に疎まれ免職となった叔父の何衡に連座して、父も官位を失ったようである。父を早くに亡くしたため、母や兄と生活した。
戦乱を避けて[[揚州 (古代)|揚州]][[廬江郡]]の[[霍山県|灊山]]へ至った。[[193年]]に[[袁術]]が揚州へ進出すると、[[汝南袁氏|袁氏]]の縁者でもあった何夔を招こうとしたため拒絶した。
曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をよく杖で殴っていた。曹操が[[司空]]だった時、何夔は彼の属官となった。このため毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていたという。[[孫盛]]は曹操のこの行動を礼節に欠けると批判するとともに、毒薬で処罰を逃れようとする何夔の心の狭さも批判している。
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その後は[[曹丕]]付となり、[[涼茂]]と共に仕えた。[[毛カイ|毛玠]]と親しい一方で[[丁儀]]兄弟とは仲が悪かったため、丁儀の権勢を案じた[[傅巽]]に忠告された。しかし何夔は、丁儀が道義に外れた行ないをする限り、失脚を免れることはできないだろうと予想した。やがて丁儀は粛清されることになった。
[[魏 (三国)|魏]]が成立すると
{{三国志立伝人物}}
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