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[[296年]]、[[氐|氐族]]の[[斉万年]]が[[晋 (王朝)|晋朝]]に反乱を起こすと、[[関西 (曖昧さ回避)|関西]]は動乱に陥った。また、連年に渡り[[飢饉]]が続いていた為、略陽・[[天水郡|天水]]を初め6郡の民は食糧を求めて流亡の身となり、数万家が梁州・益州へと移った。李庠は兄弟と共にこの流民集団の中にあった。その途上、道端に飢餓や病気の者がいると、李庠は常に陣営で救護に当たり、窮乏を助けた。これにより、民心を大いに掴んだ。その後、兄弟と共に益州へと入った。
 
[[300年]]11月、益州[[刺史]]の[[趙キン (西晋)|趙廞]]は密かに蜀の地を占有しようと考え、官庫の食糧を流民達へ振舞って人心掌握に努めた。趙廞は李庠と会うと、その器の深さを称えた。そして、兵法について論じ合うと、李庠の考えに深く賛同した。趙廞は親しみを込めて「李玄序は、有りし日の関羽・張飛のようだ」 と言った。李庠とその兄弟は皆武勇に優れており、配下の者は[[巴西郡|巴西]]の出身で趙廞とは同郷であった為、趙廞は彼らを厚遇し、自らの爪牙とした。
 
趙廞が決起すると、李庠は妹の夫である[[李含 (成漢)|李含]]・[[任回]]・[[上官惇]]・[[上官晶]]・[[李攀]]・[[費佗]]と氐族の[[苻成]]・[[隗伯]]らを始め四千騎を率いて趙廞の下へ正式に帰順した。趙廞は彼を自らの腹心とし、部曲督に任じた。李庠は六郡の流民達の中から勇壮な者を募集し、一万人余りを指揮下に置いた。また、羌族が趙廞に叛くと、軍を率いてこれを討伐した。功績により、李庠は威寇将軍に任じられ、赤幢と曲蓋を与えられ、陽泉亭侯に封じられた。また、銭百万、馬五十匹を下賜された。