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→‎来歴: 連隊長(Colonel)ではなくカーネル・イン・チーフ(Colonel-in-Chief)に就任したとの事実に基づく訂正
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1973年、パトリシアは[[ケント州]]の副知事に任命された。[[治安判事]]も兼務しており、さらには[[SOS子どもの村]]イギリス支部や準軍事組織フロンティアーズメン部隊など、様々な組織の活動に貢献した。その後、パトリシアは聖ヨハネ勲章を受章している。
 
1974年6月15日、名付け親であるパトリシア・ラムジーの後任として、パトリシア王女カナダ軽騎兵連隊の[[イギリス陸軍#連隊とカーネル・イン・チーフ|カーネル・イン・チーフ]]([[:en:Colonel-in-Chief|Colonel-in-Chief]])に着任した。<ref>http://ppcli.com/the-regiment/colonel-in-chief/past-colonel-chief/countess-mountbatten-burma/</ref>同連隊はパトリシア・ラムジーの父親であるコノート公アーサーが[[カナダ総督]]を務めていた[[第1次世界大戦]]中に、パトリシア・ラムジーに因んで創設された部隊である。1979年にマウントバッテン伯爵位を継いだ後も、パトリシアは同連隊の将校や兵卒から「レディ・パトリシア」と呼ばれるのを好んだ。2007年3月17日、パトリシアはパトリシア王女カナダ軽騎兵連隊連隊長カーネル・イン・チーフの職を退き、前カナダ総督[[エイドリアン・クラークソン]]がその後任となった。2007年8月28日、カナダ総督はパトリシアのカナダ軍軽騎兵連隊カーネル・イン・チーフとしての働きを称え、彼女にカナダ功労十字章を授けた。
 
1979年8月27日、[[アイルランド]]北西部の[[ドネゴール州|ドネゴール湾]]にて[[IRA暫定派|IRA]]が[[ヨット]]に仕掛けた爆弾テロにより、わずか14歳の息子ニコラス、父マウントバッテン卿、姑のブラボーン男爵未亡人ドリーンを失った。また一行の乗ったヨットの漕ぎ手を務めていた15歳の少年も巻き添いになった。同乗していたパトリシア、夫ブラボーン卿、別の息子ティモシーは怪我を負ったものの、命は助かった。