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[[梁 (南朝)|南朝梁]]の昭明太子[[蕭統]]の三男。[[中大通]]3年([[531年]])に岳陽郡王、[[越州 (浙江省)|東揚州]][[刺史]]に任命され、[[会稽郡|会稽]]で勢力を伸ばした。[[中大同]]元年([[546年]])には[[雍州]]刺史となり[[襄陽郡 (中国)|襄陽]]に移っている。[[太清]]3年([[549年]])に次兄の河東王[[蕭誉]]が叔父の湘東王蕭繹(後の[[元帝 (南朝梁)|元帝]])の攻撃を受ける事件が発生すると、蕭詧は救援の兵を起こすが失敗、窮して[[西魏]]へ降ることとなった。[[大統]]16年([[550年]])に西魏によって梁王に冊封されるなど優遇された。[[承聖]]3年([[554年]])に西魏が[[荊州区|江陵]]を攻撃すると元帝は投降、蕭詧はこれを殺害した。
 
その後[[555年]]に梁皇帝を自称し、元号を[[大定 (南朝後梁)|大定]]と定めて自立した。しかし江陵の周囲800里の地以外、襄陽を含めすべて西魏に併呑されており、国勢は振るわなかった。大定18年([[562年]])に崩御し、三男の[[蕭キ|蕭巋]]がその地位を継承した。
 
==伝記資料==
*『[[梁書]]』巻55(列伝第49)
 
{{先代次代|[[後梁 (南朝)|南朝後梁]]の初代[[中国帝王一覧|皇帝]]|555年 - 562年|([[元帝 (南朝梁)|元帝]])|[[蕭|明帝]]}}
{{南朝の皇帝}}