「荀伯玉」の版間の差分

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伯玉が故郷の広陵に帰ると、広陵城の南楼に登った夢をみて、ふたりの青衣の子どもが「草中の肅、九五してたがいに追う」と伯玉に言った。伯玉が城下の人を見ると頭上にみな草を生やしていた。[[471年]](泰始7年)、また伯玉は蕭道成が広陵の北の渚で船に乗っている夢を見た。見ると蕭道成の両掖の下に短い翼があったが、折りたたまれて伸びていなかった。伯玉がどうして翼を伸ばさないのか訊ねると、蕭道成は「あと3年かかる」と答えた。伯玉は夢の中で自らが呪師であるといい、蕭道成に向かって呪文を唱え、6回唱えると6匹の龍が出てきて、両掖の下の翼は伸びきり、また畳まれた。[[474年]]([[元徽 (南朝宋)|元徽]]2年)、伯玉は蕭道成の下で従軍して桂陽王[[劉休範]]を討った。[[477年]](元徽5年)、[[後廃帝 (南朝宋)|後廃帝]]が廃位されると。蕭道成は「卿のかつての夢がいま効力をあらわしたようだ」と伯玉に言った。
 
同年([[昇明]]元年)、[[順帝 (南朝宋)|順帝]]が即位すると、伯玉は蕭道成の下で驃騎中兵参軍となった。歩兵校尉に任じられたが、受けなかった。[[済陽郡]][[太守]]を兼ねた。蕭道成の側近にあって、護衛をつとめ、前軍将軍の号を加えられた。[[478年]](昇明2年)、蕭道成が[[太尉]]となると、伯玉は太尉府中兵参軍に転じた。[[479年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、蕭道成が斉の[[皇帝]]に即位すると、伯玉は南豊県子に封じられた。武陵王[[蕭曄]]の下で輔国将軍・征虜司馬となった。[[480年]](建元2年)、安成王[[蕭コウ|蕭暠]]の下に転じて冠軍司馬となった。さらに豫章王[[蕭嶷]]の下で司空諮議をつとめた。
 
伯玉が[[皇太子]]蕭賾の不法行為を報告したため、蕭道成は太子の側近の張景真を処刑した。蕭道成は伯玉を信任して、軍事や国事の機密を任せ、当時「10の敕令のうち5までは、荀伯玉の命によるもの」と噂された。皇太子蕭賾は伯玉を憎んだ。[[482年]](建元4年)、蕭道成が死去するにあたって、伯玉に対する悪口があっても信用せず、東宮の長か南兗州に置くよう蕭賾に遺言した。武帝(蕭賾)が即位すると、伯玉は冠軍将軍・[[南濮陽郡]]太守に任じられたが、ちょうど伯玉の父が死去したため、赴任しなかった。黄門郎となり、ついで豫章王太尉諮議に転じた。まもなく散騎常侍の位を受けた。[[483年]]([[永明]]元年)、[[垣崇祖]]とともに処刑された。享年は50。