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'''原田宗馭'''(はらだ そうぎょ、弘治2年(1556年)-寛永15年(1638年)5月26日)は、、[[安土桃山時代]]後期から[[江戸時代]]前期の武士。茶人。[[江戸幕府|幕府]]御茶道頭、御数寄屋頭。原田常通(芦隠斎)の子。通称清次郎。官途左馬允。諱維利。
 
== 生涯 ==
[[弘治 (日本)|弘治]]2年(1556年)[[堺]]に生まれる。[[小早川秀秋]]の家臣となるが浪人し、[[茶道|茶の湯]]を[[古田重然|古田織部]]に学び茶の湯をんで極める。[[慶長]]9年(1604年)、[[旗本]]・鵜殿兵庫助(慶長18年(1613年)に[[大久保長安事件]]で改易)の紹介で、[[織部流]]茶人でもある[[将軍]][[徳川秀忠]]に御茶道(堂)として仕え、破格の現米70石を給される。ちなみに、[[元和 (日本)|元和]]2年(1616年)[[徳川家康]]没後の[[駿府城|駿府]]引き揚げ時、御茶道頭であった[[中野笑雲]](織部門下)は江戸に宅地と現米50石が与えられている。元和9年(1623年)、大御所秀忠の命で御数寄屋頭となり、[[徳川家光]]に仕える。宗馭は、御数寄屋組頭・[[茶坊主|数寄屋坊主]]・[[露地|露次]]の者を統括した
 
元和9年(1623年)、大御所秀忠の命で御数寄屋頭となり、[[徳川家光]]に仕える。宗馭は、御数寄屋組頭・[[茶坊主|数寄屋坊主]]・[[露地|露次]]の者を統括した。[[寛永]]15年(1638年)5月26日没、83歳。
[[寛永]]15年(1638年)5月26日没、83歳。
 
== 参考文献 ==