「中和幇」の版間の差分

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[[1955年]]頃、[[孫徳培]]は一回の紛糾の中で一名ヤクザ親分.周天送を殺して、最後に逮捕のうえ投獄される。烏合の衆の中和幇、すぐ敵ヤクザ勢力の攻撃と分裂の勢力の版図に遭う。しかも中和幇内部はその時権力のために内部闘争にあって、更に勢力の衰退をさせる、部分の構成員は敵対している[[四海幇]]と[[万国幇]]にも参加する。
 
しかし中和幇の五大将([[潘世明]]、[[湛洲吾]]、[[周新徳]]、[[周榕]]、一名不詳)、同じく権力闘争のため、中和幇をさせて散り散りばらばらだ。[[1955年]]頃、[[湛洲吾]]から真っ先に中和幇を離れて、そして[[三環幇]]([[(台北)|三環幇]][[暴力団]])を創立する。[[1956年]]頃、[[潘世明]]も大衆が中和幇を離れることを率いて、そして[[万字幇]]([[暴力団]])を創立する。残る成員、依然として権力の闘争を続ける。
 
それから中和幇元老・[[趙寧]]と大老達は成員を組織して永和竹林路で会議を行うことを招集して、対策を相談する。趙寧から宣言して、幇主[[孫徳培]]は入獄して、その地位を尊重するため、決定は後でもう幇主の一職を設立しなくて、成員を組織する平等を表すで、しかも中和幇は'''竹林聯盟'''を改名して、略称[[竹聯幇]]。
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==関連組織==
*[[竹聯幇]]
*[[三環幇(台北)]]
*[[万字幇]]