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== 概要 ==
国例の性格については、[[律令制]]が崩れて[[律令法]]が機能しなくなった中で慣習法として成立したとする[[石母田正]]の説<ref>石母田『中世的世界の形成』第2章(初出:1946年)の説</ref>と律令法が機能していた時期にもそれぞれの国の慣例が慣習法として認められて[[格式|式]]などの形式で組み込まれていたとする[[宮城栄昌]]の説<ref>宮城『延喜式の研究』論述篇第1篇第1章(初出:1957年)の説</ref>がある。[[宮川麻紀]]の分析によれば、[[8世紀]]には既に存在し(律令法の制定当時まで遡る可能性もある)、[[9世紀]]に入ってから諸国から朝廷(中央政府)に対して申請が上げられて[[太政官符]]や民部省例の形で承認を得て[[成文法]]化されるようになったとする。実際には全ての国例が朝廷に申請されていた訳ではなく{{Efn|現在把握されている国例の初期のものとされる『[[類聚三代格]]』所収の[[大同 (日本)|大同]]5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]付太政官符の記事に[[藤原緒嗣]]の[[解 (公文書)|解]]として「雖有国例、未見格式」(国例に有りと言えども未だ格式に見ず)という記述がある。}}、朝廷もその全容は把握してはいなかったと考えられ、それぞれの国で実際に用いられた国例の中には記録に残されなかったものも多数存在したとみられる<ref name=宮川202>宮川、2020年、P202-206.</ref>。
 
9世紀より記録に現れている。この頃より旧来の律令体制による徴税形態が解体して「[[官物率法]]」・「[[国領率法]]」と呼ばれる体系が確立すると、諸国の事情に合わせた徴収体制が取られるようになった。[[天慶]]6年([[952年]])には現地に赴任した[[国司]]が在庁官人に国例を諮問して、官人側が「国風答申」を行う事が慣例になっている事が記されている。また、国例には租税に関するものだけではなく、[[公文]]や[[健児]]、[[富豪層|富豪]][[浮浪人|浪人]]対策など多岐にわたっており、国司が国例によって国務を効率よく運営し、在庁官人や雑任との円滑な関係を維持していったと考えられている<ref name=宮川202/>。