「レオン・ブルム」の版間の差分

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[[第二次世界大戦]]が勃発し、1940年にはドイツ軍がパリを陥落させ、フランスを降伏に追い込んだ([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]])が、ブルムはフランスからの亡命を図らなかった。1940年7月10日に[[ヴィシー]]で上下両院の合同会議で[[フィリップ・ペタン|ペタン]]元帥への全権委任をめぐる投票が行われた際には、大多数の議員が賛成票を投じたのに対し、ブルムは反対票を投じた80名の議員のうちの一人となった。無論、ユダヤ人であり社会主義者である彼が母国に留まることは極めて危険な行為であった。まず、ブルムは[[ヴィシー政府]]に「フランスを弱体化させた」という罪で逮捕された。1942年初めには、元首相の[[エドゥアール・ダラディエ|ダラディエ]]、元軍総司令官の[[モーリス・ガムラン|ガムラン]]らとともに[[リオン (フランス)|リオン]]の特別法廷に被告として出廷するが、裁判の不当性を訴えるとともに、自らが政権を担っていた当時に軍備の増強に貢献したこと、逆にヴィシー政府で権力を握っている人々が政権の座にあった当時にはそれが進まなかったことなどを主張し、ダラディエとともに裁判を中断・無期延期に追い込んだ。そして1943年にはドイツへと送られ、まず[[ブーヘンヴァルト強制収容所|ブーヘンヴァルト]]、ついで[[ダッハウ強制収容所|ダッハウ]]、そして[[ティロル]]の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に収監された。ブルムの弟ルネ・ブルム([[:fr:René Blum|René Blum]])はバレエ振付師で、[[モンテカルロ歌劇場|オペラ・ド・モンテカルロ]]付属バレエ団([[:fr:Opéra de Monte-Carlo|Opéra de Monte-Carlo]])創設者であった。彼は逮捕され、[[1943年]]に[[アウシュヴィッツ]]に送られて間もなく処刑された。ドイツ敗戦間際にはユダヤ人の処刑を加速化させる命令が出されるが、それがティロルでは遵守されなかったためブルムは生き延びた。やがてブルムは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による解放によって強制収容所から救出された。彼の代表的なエッセイである『人間としての尺度』(邦題『人間から人間へ ― わが人民戦線の回想』)は、この収容所で記されたものである。
 
第二次世界大戦後、1946年から1947年にかけて再び首相を務めて[[フランス第四共和政]]の成立に一役を買うもい<ref>A History of the Twentieth Century: Volume Two: 1933–1951 by Martin Gilbert</ref>体調の不調を理由に1947翌1948年に退陣し暫く副首相を務めた。[[1950年]]にパリ郊外で死去。
 
== 係累 ==