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[[494年]](太和18年)、斉の[[雍州]]刺史の[[曹虎]]が北魏に使者を派遣して降伏を願い出てきたため、孝文帝は盧淵を使持節・安南将軍とし、前鋒諸軍を率いて樊鄧に赴かせて応対にあたらせることとした。盧淵は曹虎の偽降を疑っており、葉県に入ると、曹虎の詭計を明らかにした。孝文帝は南陽に進出するよう盧淵に命じたが、盧淵は食糧が不足していたことから、先に赭陽を攻めさせるよう求めた。孝文帝はこれを許可し、盧淵は赭陽に進攻した。斉の将軍の[[垣歴生]]が救援に現れると、盧淵は将才のないところを露呈し、斉軍に敗れた。敗戦の罪を問われて官爵を剥奪され、民とされた。
 
まもなく母が死去したため、盧淵は喪に服した。喪が明けると、兼[[太尉]]長史となった。孝文帝が南征の軍を起こすと、盧淵は従軍して、彭城王[[元キョウ|元勰]]の下で中軍府長史を兼ねた。まもなく京兆王[[元愉]]の下で[[徐州]]長史を兼ねた。元愉は年少であったため、徐州の実務の多くを盧淵が決裁した。[[499年]](太和23年)、[[南徐州]]刺史の沈陵が斉と連絡して反乱を計画しており、盧淵はその兆しを察知して[[洛陽]]に報告したが、朝廷は取り合わなかった。はたして沈陵は宿預の兵を率いて反乱を起こし、斉についた。[[淮水]]沿岸の諸城は盧淵の命により警戒を強めていたため、反乱への加担を未然に防がれた。沈陵に心を寄せる人々の多くは捕らえられたが、盧淵のはからいで釈放され、罪を沈陵ひとりに帰すことが表明されたため、民心は落ちついて混乱は収拾された。
 
[[500年]]([[景明]]元年)、秘書監に任じられた。[[501年]](景明2年)、在官のまま死去した。享年は48。安北将軍・[[幽州]]刺史の位を追贈され、固安伯の爵位を追復された。[[諡]]は懿といった。