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長い歳月の間に記されたものと考えられ、そのため書中では一貫性が欠けている面もみられるが、虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴し、合理的に物事を究めようとする立場は当時の思想としては大胆かつ革新的なことであった。反尚古思想であるゆえに、漢王室を絶対視している。また、作品中には王充自身の文章に対する意見も含まれており、誇張を嫌い、真実をそのまま記すことのできる文章を望んでいた。編述を終えた時点では100篇を超える構成であったというが、『[[後漢書]]』に挙げられた時点で85篇とされており<ref>『後漢書』卷49 王充王符仲長統列傳第39</ref>、さらに巻15の「招致篇」44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。
 
王充の死後に本書が世に出たのは[[2世紀]]末であり、[[蔡ヨウ|蔡邕]]が[[呉郡]]で入手して人と語らう際の虎の巻としたことや、[[会稽郡|会稽]]太守となった[[王朗]]が同地で一本を発見したことによるという<ref>大滝訳注1965 p.231</ref>。
 
一個人による[[百科全書]]的著作であり[[唐]]代までは大著として評価されてきたが、その記述姿勢が[[孔子]]・[[孟子]]に批判的であるという点から、[[宋 (王朝)|宋]]代以降は無法の書として省みられなくなった。そのため、本文校訂も十分には進んでおらず、ようやく[[清]]末になって部分的注釈がなされ、[[中華民国]]時代になって詳細な注釈が完備した。[[1970年代]]の[[中華人民共和国]]での[[批林批孔運動]]の際には孔子を批判していた先駆的な思想書として評価されたという。