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| name = フェルディナン・ビュイッソン<br>Ferdinand Buisson
| image = Ferdinand Buisson (1841-1932).jpg
| image_size = 230px200px
| caption = フェルディナン・ビュイッソン(1920年代)
| birth_date = {{Birth date|mf=yes|1841|12|20}}
| birth_place = {{FRAFRA1830}}、[[パリ]]
| death_date = {{death date and age|mf=yes|1932|2|16|1841|12|20}}
| death_place = {{FRAFRA1870}}、[[オワーズ県]]{{仮リンク|ティウーロワ=サン=タントワーヌ|fr|Thieuloy-Saint-Antoine}}([[オー=ド=フランス地域圏]])
| occupation =[[哲学者]]、[[教育学]]者、[[政治家]]
| nationality = {{FRA}}
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|宗教 = 自由主義的プロテスタント
|政党 = [[急進社会党]]
|出身校 = {{仮リンク|セ・コンドルセ文科大学|fr|LycéeFaculté Condorcedes lettres de Paris}}<br>パリ文科大学 ([[パリ大学|ソルボンヌ大学]])(博士)
|肩書き = {{仮リンク|ヌーシャテル大学|fr|Université de Neuchâtel|label=アカデミー・ド・ヌーシャテル}}教授<br>公教育省の初等教育局長 (1879-1896)<br>教育同盟会長 (1902-1906)<br>[[人権連盟 (フランス)|人権連盟]]会長 (1913-1926)<br>ソルボンヌ大学教育学講座教授
}}
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1927年|ノーベル平和賞|独仏融和への貢献に対して}}
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=== プロテスタンティズム ===
フェルディナン・ビュイッソンは1841年12月20日、[[パリ]]でピエール・ビュイッソン(Pierre Buisson)とアデル・オレリー・ド・リボークール(Adèle Aurélie de Ribeaucourt)の間に生まれた<ref name=":2">{{Cite journal|last=Havelange|author=|first=Isabelle|last2=Huguet|first2=Françoise|last3=Lebedeff-Choppin|first3=Bernadette|year=1986|date=|title=BUISSON Ferdinand Édouard|url=https://www.persee.fr/doc/inrp_0298-5632_1986_ant_11_1_6243|journal=Publications de l'Institut national de recherche pédagogique|volume=11|issue=1|page=|pages=204-207|language=fr}}</ref>。敬虔な[[プロテスタント]]の家庭で、父ピエールは弁護士、次いで[[サン=テティエンヌ]]([[ロワール県]])裁判所の判事であったが、フェルディナンが1716歳のときに亡く死去したため、家庭教師どをして家計を支えながら学業を続け<ref name=":2" /><ref name=":3">{{Cite web|title=BUISSON Ferdinand, Édouard|url=https://maitron.fr/spip.php?article24585|website=maitron.fr|accessdate=2020-08-17|publisher=Maitron|author=Martine Brunet|date=2019-01-08|language=fr}}</ref>。{{仮リンク|リセ・コンドルセ|fr|Lycée Condorce}}を卒業した後<ref name=":4">{{Cite journal|last=Charle|author=|first=Christophe|year=|date=1985|title=17. Buisson (Ferdinand, Edouard)|url=https://www.persee.fr/doc/inrp_0298-5632_1985_ant_2_1_2596|journal=Publications de l'Institut national de recherche pédagogique|volume=2|issue=1|page=|pages=38-40|language=fr}}</ref>、[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]の一次試験に合格したものの、健康状態を理由に(あるいは彼の信条を理由に)入学を許可されなかった<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=手戸聖伸|year=|date=2004-06-30|title=フェルディナン・ビュイッソンにおける「道徳」と「宗教」、あるいは「人類」の逆説 |url=https://doi.org/10.20716/rsjars.78.1_45 |journal=宗教研究|volume=78|issue=1|page=|pages=45-69|publisher=[[日本宗教学会]]|language=ja|doi=10.20716/rsjars.78.1_45|issn=0387-3293 |publisher=日本宗教学会}}</ref>。家庭教師などをして家計を支えながら勉学1862年励み、[[学]]の[[学士|学士号]]を取得し、さらに1868年に[[哲学]]の[[アグレガシオン]](一級大学教員資格)を取得した<ref name=":4" /><ref>{{Cite web|title=Les agrégés de l'enseignement secondaire. Répertoire 1809-1960|url=http://rhe.ish-lyon.cnrs.fr/?q=agregsecondaire_laureats&nom=&annee_op==&annee%5Bvalue%5D=1868&annee%5Bmin%5D=&annee%5Bmax%5D=&periode=3&concours=14&items_per_page=100|website=rhe.ish-lyon.cnrs.fr|accessdate=2020-08-17|publisher=Laboratoire de recherche historique Rhône-Alpes (LARHRA) - Ressources numériques en histoire de l'éducation|language=fr}}</ref>
 
=== スイス亡命 ===
だが、当時([[フランス第二帝政|第二帝政]]下)、フランスで教育職に就く際には皇帝([[ナポレオン3世]])への忠誠を宣誓する必要があったが[[共和主義|共和派]]の彼はこれを拒否したため教職の道を閉ざされ、さらに、既に[[自由主義]]的プロテスタントとしての方向性を固めていたために[[プロテスタント正統主義|正統派]]にも[[改革派教会|改革派]]にも容れられず、{{仮リンク|エドガール・キネ|fr|Edgar Quinet}}<ref>{{Cite web|url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784588008344|title=エドガール・キネ|accessdate=2018年9月24日|publisher=1803年フラン[[東南部ブール=アン=ブレ]]生まれる。1820年パリに出、コレージュ・ド・フランスでドイツ思想を講じてい[[亡命]]しヴィクトル・クーザンに才能を認められ、またヘルダー哲学と出会い、歴史家・歴史哲学者としての思想的立場を確立する。この頃に識り合ったミシュレとこの後50年にわたる親交がつづく。30年代に入り『両世界評論』『パリ評論』誌を中心に活動共和主義的立場に傾いていく。381851リヨン大学文学部教授に招かれ、41年にはコの[[ナポージュ・ド・フラス教授に就任。48年2月革命後の第二共和政成立とともに立法議会代議士に選出され共和党左派の政治家として論陣を張る。51年3世|ルイ=ナポレオン]][[クーデター]]によって追放されて[[ベルギー]]に亡命。その後71年パリ・し、当時スイスに住んでいた元[[ミュジュ・ド・フラによって第三共和政ス]]国民議会に復帰し、75年死去。邦訳書に『さまよえるユダヤ人』などがある。教授で[[歴史学者]]・哲学者の{{仮リンク|エドガール・キネ|fr|Edgar Quinet}}</ref>(1803-1875)らの勧めによるものであ[[<ref name=":0" />、スイス]]に亡命。[[で{{仮リンク|ヌーシャテル]]・大学|fr|Université de Neuchâtel|label=アカデミー・ド・ヌーシャテル}}の教授として着に就任した<ref name=":2" /><ref name=":3" />。ヌーシャテルでは「義務的な教義も、奇蹟も、不謬の書物も、祭司の権威もない自由な教会」の設立を目指す自由主義キリスト教連盟を結成。さらに、前年に[[ジュネーヴ]]で創設された平和運動団体「平和と自由の国際連盟」に参加し、[[1869年]]に[[ローザンヌ]]で開催された同連盟の大会で自由主義キリスト教に関する講演を行った<ref>{{Cite bookjournal|authorlast=Patrick CabanelFabre|first=Benjamin|date=2017-12-01|title=Patrick Cabanel, Ferdinand Buisson:. Père de l'écolel’école laïque|date=|year=2016|accessdate=|publisher=. Genève, Labor et Fides, 2016, 547 p.|author2url=http://journals.openedition.org/assr/33517|author3journal=Archives de sciences sociales des religions|author4issue=180|author5pages=298–300|author6language=fr|author7=|author8=|author9issn=0335-5985}}</ref><ref name=":15">{{Cite newsweb|title=Ferdinand Buisson (1841-1932) - Musée virtuel du Protestantisme|url=https://www.museeprotestant.org/notice/ferdinand-buisson-1841-1932/|website=Musée protestant|accessdate=20182020-0908-2417|publisher=|language=fr-FR|work=Musée virtuel du Protestantisme}}</ref>。
 
=== 第三共和政、帰国、初等教育視学官 ===
[[1870年]]にフランスに[[フランス第三共和政|第三共和政]]が成立すると早速帰国し、社会活動に参加。とりわけパリ[[17区 (パリ)|17区]]に設立された最初のライック(非宗教的)な[[孤児院]]の運営に携わった。1871年、[[アドルフ・ティエール]]政権下で公教育相を務めた{{仮リンク|ジュール・シモン|fr|Jules Simon}}<ref>{{Cite web|url=https://noema-images-archives.com/photo/646|title=ジュール・シモン (1818-1896)|accessdate=2018年9月24日|publisher=フランスの哲学者、政治家。モルビアン県ロリアンに生まれる。パリの高等師範学校で学び、哲学を各地の大学で講じたのち、ソルボンヌの教授となる。1848年以降は政治家ともなり、第二帝政下では新聞・雑誌に論説を寄稿してナポレオン三世を攻撃した。第三共和制においては1875年に終身上院議員、[[アカデミー・フランセーズ]]会員となったほか、1876年から翌年にかけては首相も務めた。就任時に述べた「心底から共和主義者であり、断固として保守主義者である」という所信は有名であり、その言葉通り任期中は右派と左派の調停に務めた。(鹿島茂・倉方健作著)}}</ref>により初等教育[[視学官]]に任命された。なお、この決定は、オルレアン大司教{{仮リンク|フェリックス・デュパンルー|fr|Félix Dupanloup}}の猛反対に遭った<ref name=":15" />。初等教育視学官として1873年には[[ウィーン万国博覧会]]に、1876年には[[フィラデルフィア万国博覧会]]に派遣され、学校博覧会を視察。視察報告書で万国博覧会参加各国の初等教育に関する実態や教育方法を紹介した<ref name=":32" /><ref name=":6">{{Cite book|author=尾上雅信和書|title=フェルディナン・ビュイッソンの教育思想 - 第三共和政初期教育改革史研究の一環として|date=|year=2007|accessdate=|publisher=[[東信堂]]|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9author=尾上雅信}}</ref>。
 
=== 初等教育局長 ― ジュール・フェリー法の立案・執行 ===
1879年、公教育相[[ジュール・フェリー]]により初等教育局長に任命され、以後1896年まで17年間の長きにわたってフランスの教育改革に貢献することになった。とりわけ[[1880年代]]はフランスの初等教育制度の根幹をなす無償、義務、非宗教性(ライシテ)の三原則が確立された時代であり、[[共和派]]・[[反教権主義|反教権派]]が[[カトリック教会|カトリック]]勢力との対立・駆け引きを通じて粘り強く改革を推し進め、[[1881年]]6月16日の法律により初等教育の無償制<ref>{{Cite web|url=https://www.senat.fr/evenement/archives/D42/gratuit1.html|title=Les lois scolaires de Jules Ferry : Loi du 16 juin 1881 établissant la gratuité absolue de l'enseignement primaire dans les écoles publiques|accessdate=2018年9月24日2020-08-17|publisher=Sénat|language=fr}}</ref>、[[1882年]]3月18日の法律により初等教育の義務制および公教育の非宗教性<ref>{{Cite web|url=https://www.senat.fr/evenement/archives/D42/1882.html|title=Les lois scolaires de Jules Ferry : Loi du 28 mars 1882 sur l'enseignement primaire obligatoire|accessdate=2018年9月24日2020-08-17|publisher=Sénat|language=fr}}</ref>が確立した。さらに女性の教育に関する法律も制定された。これらは併せて{{仮リンク|ジュール・フェリー法|fr|Lois Jules Ferry}}と呼ばれるが、これを補う形で[[1886年]]10月30日には公立学校の教師の非宗教性の保障する{{仮リンク|ゴブレ法|fr|Loi Goblet}}が成立した<ref>{{Cite web|url=https://www.senat.fr/evenement/archives/D42/loi1886.html|title=Les lois scolaires de Jules Ferry : Loi du 30 octobre 1886 sur l'organisation de l'enseignement primaire|accessdate=2018年9月24日|publisher=}}</ref>。この間、ビュイッソンはジュール・フェリー法に関する「すべての法案、すべての法規、すべての通達」を作成し<ref name=":1">{{Cite news|title=Ferdinand Buisson (1841-1932) - Musée virtuel du Protestantisme|url=https://www.museeprotestant.org/notice/ferdinand-buisson-1841-1932/|accessdate=2018-09-24|language=fr-FR|work=Musée virtuel du Protestantisme}}</ref><ref name=":5" />、[[1887年]]には同法の執行の一環として、後の教育に大きな影響を与えることになった『教育学・初等教育事典』<ref>{{Cite web|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k24232h|title=Dictionnaire de pédagogie et d'instruction primaire|accessdate=2018年9月24日|publisher=フランス国立図書館 電子図書館ガリカ所蔵の電子版}}</ref>を編纂した。併せて、教育、[[学校教育]]法、[[教育行政]]に関する書籍や古典作品、[[教材]]などを所蔵する『教育博物館』を設立し、この博物館の機関誌『教育誌』を創刊<ref>{{Cite web|url=http://www.inrp.fr/edition-electronique/lodel/dictionnaire-ferdinand-buisson/document.php?id=3241|title=Musées pédagogiques|accessdate=2018-09-24|last=Pellisson|first=Maurice|website=www.inrp.fr|language=fr}}</ref>。{{仮リンク|フェリックス・ペコー|fr|Félix Pécaut}}牧師と共に1880年、女子師範学校の教員養成のために[[フォントネー=オー=ローズ]]に女子高等師範学校、同様に[[1882年]]に男子師範学校の教員養成のために[[サン=クルー|サン=クルー]]に男子高等師範学校を創設するなどの重要な役割を担った。フェリックス・ペコーもビュイッソンと同様に自由主義的プロテスタントであり、実際、ジュール・フェリーの教育改革において中核的な役割を担ったのは、ビュイッソン、ペコー、{{仮リンク|ジュール・スティーグ|fr|Jules Steeg}}らのプロテスタントであった<ref name=":0" />。
 
=== ビュイッソンのライックな信仰 ===
彼ら共和派は公教育から宗教の影響を排除することによってこそ、各人の信教あるいは良心の自由が確保されると考えたが、カトリック側は「宗教なくして道徳なし」として共和派の「神なき学校」を批判。これに対してビュイッソンは、宗教的[[道徳教育]]ではなくライックな道徳教育、「ライックな信仰」を提唱した。「ライックな信仰」は撞着語法的であるが、彼は「宗教の肉体」と「宗教の魂」とを区別し、教会の諸制度や[[位階制]]、[[教義]]、[[宗教団体|教団]]、[[儀式]]などの外面的な形式の部分である「宗教の肉体」は非本質的であり、こうした非本質的な部分を削ぎ落とし、「宗教の魂」としての本質的な部分を抽出しようとしたのである<ref>{{Cite news|title=«La foi laïque»|last=lelièvre|first=claude|url=https://blogs.mediapart.fr/claude-lelievre/blog/100210/la-foi-laique|accessdate=2018-09-24|language=fr-FR|work=Club de Mediapart}}</ref><ref>{{Cite webjournal|url和書|author=https://catalog.lib.kyushu小山勉|year=|date=1995-u.ac.jp/opac_download_md/.../KJ0000074484103-00001.pdf20|title=教育闘争と知のヘゲモニー - フランス第三共和政期を中心に|accessdateurl=2018年9月24日https://doi.org/10.15017/2014|journal=法政研究|volume=61|issue=3/4上|page=|pages=313-429|publisher=小山勉. [[九州大学]]法政研究』第61号, 1995学会}}</ref>。さらにこうした観点から、初等教育から「宗教史」を排し、「人類史」(人間史、ヒューマニティの歴史) を教えるべきであるとし<ref name=":1" /><ref name=":5" />、人間知性の最も自然で自発的な行為である[[直観|直感]]に基づいた教育(直観教育)により、自分で考えるという活動的な道徳教育が可能であると考えた<ref name=":27">{{Cite webjournal|url和書|author=http://edugrad.mukogawa大津尚志|year=|date=2018-u.ac.jp/wordpress/wp03-content/themes/mukojyo_in/img/reaserch_result/ronsyu/ronsyu13/ronsyu13_01ootsu.pdf21|title=フランスにおけるフェリー退陣以降の道徳・市民教育(1885-1914)(1885-1914)|accessdateurl=2018年9月24日http://doi.org/10.14993/00001293|publisherjournal=大津尚志. 武庫川女子大学『教育学研究論集』第|volume=13号, 2018|page=|pages=1-8|publisher=[[武庫川女子大学]]|ISSN=2187-7432}}</ref>。
 
1896年、ソルボンヌ大学教育学講座の初代教授に就任(後任は[[エミール・デュルケーム]])。1902年から1906年まで{{仮リンク|教育同盟|fr|Ligue de l'enseignement}}の会長を務めた。
 
=== ビュイッソン=ブリアン委員会 ― 政教分離法 (ライシテ法) 制定 ===
[[1894年]]に起きた[[ドレフュス事件]]は上記の教権派(カトリック勢力)と共和派の対立と結びつく大問題となった。ビュイッソンらドレフュス擁護派は[[1898年]]に{{仮リ[[人権連盟 (フラス)|人権|fr|Ligue des droits de l'homme}}]]を結成し、[[政教分離原則|政教分離]]支持・[[反教権主義]]の立場を表明した(ビュイッソンはこの後[[19131914]]から[[1926年]]まで人権同盟の会長を務めた)<ref>{{Cite web|title=De 1898 à nos jours|url=https://www.ldh-france.org/de-1898-a-nos-jours/|website=Ligue des droits de l’Homme|accessdate=2020-08-17|language=fr-FR|publisher=}}</ref>。[[1899年]]に急進派の支持を受けた[[ピエール・ワルデック=ルソー]]内閣が成立。[[1901年]]7月1日のワルデック=ルソー法(結社法)第13条により[[修道会]]は認可制となった。[[1902年]]の選挙でも左派の社会党・急進党が勝利。ビュイッソンは[[急進社会党]]から国会議員に選出され、以後[[1914年まで、次いで1919年]]から1924年まで政治家として活躍することになっ<ref name=":2" />。同年、首相に就任した同じ急進社会党の{{仮リンク|エミール・コンブ|fr|Emile Combes}}は約3千の無認可の修道会系学校を次々と閉鎖に追い込み、約2万人の修道会員、54の修道会がフランスから追放された。ビュイッソンはこうした状況について「[[人間と市民の権利の宣言|人間および市民の権利宣言]]の文言や精神を傷つけることはできない」とし、「修道会の教育の自由を否定する、修道会を国家の監督下に置くことを正当化する、修道士は団体の特権に基づいて教員になってはならない」と発言した<ref name=":27" />。[[1904年]]7月29日、フランスと[[ローマ教皇庁]]との国交断絶。[[政教分離法]]([[ライシテ]]法)制定のために33人から成る検討委員会が結成された。ビュイッソンが委員長、[[アリスティード・ブリアン]](同じく急進社会党員で[[1909年]]首相就任、以後度々再任)が報告者を務めたこの委員会はビュイッソン=ブリアン委員会と呼ばれる。法案はいったん1904年11月に上程されたが、コンブ内閣はアンドレ陸相による軍部内非カトリック化の行き過ぎが非難されて1905年1月に総辞職<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%96%28Emile%20Combes%29-1536589|title=エミール・コンブ|accessdate=2018年9月24日|publisher=小学館『日本大百科全書』}}</ref>。3月に後任の{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|fr|Maurice Rouvier}}内閣において再度上程され、12月9日に政教分離法が成立した。これにより、[[ナポレオン1世]]と[[ローマ教皇]]の間で結ばれた[[1801年]]のコンコルダ([[政教協約]])は破棄され、[[16世紀]]以来続いてきた[[ガリカニスム]]体制も最終的に解体された。
{{See also|政教分離法|ライシテ}}
 
=== 平和運動家として ===
[[第一次世界大戦]]後、ビュイッソンは[[平和運動]]家として[[国際連盟]]の発足を支持し、特に[[1923年]]の[[ルール占領]](フランスおよび[[ベルギー]]が、ドイツの[[ルール地方]]に進駐し、占領した事件)後は[[ベルリン]]でドイツ人平和運動家らに会ってパリに招き、活動を共にするなど独仏融和に尽力した<ref name=":1" /><ref name=":5" />。こうした功績及びそれまでの平和活動や[[慈善事業]]の功績により、[[1927年]]にドイツの政治家・平和運動家[[ルートヴィッヒ・クヴィデ]]と共に[[ノーベル平和賞]]を受けた。また、[[1924年]]には[[レジオンドヌール勲章]]グラントフィシエを受けた<ref>{{Cite web|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6059160/f1.textePage.langEN|title=Le Petit Parisien : journal quotidien du soir|accessdate=2018-09-24|date=1924-10-27|website=gallica.bnf.fr}}</ref>。
 
=== 近年の評価 ===
ビュイッソンの「ライックな信仰」、「ライックな道徳教育」およびより広義にライシテに関する思想は、現代フランスにおけるライシテ論争でも取り上げられ、たとえばライシテに関する歴史・社会学者の{{仮リンク|ジャン・ボベロ|fr|Jean Baubérot}}は、「19世紀末のフランスでライシテが確立されたとき、ライックな公立校を創設する企てにおいて第一線で活躍した哲学者フェルディナン・ビュイッソンは、ライシテを『すべての宗派に対して中立的で、すべての聖職者から独立し、いかなる神学的な概念にも依拠しない国家』と定義した。その目的は、信仰の区別なく『すべてのフランス人の[[法の下の平等|法の前の平等]]』を保障すること、『すべての宗派の自由』を確固たるものにすることであった」として、ビュイッソンの定義をライシテの原点に位置づけたうえで、ここ30年ほどの間に起こった「ライシテの右傾化」を批判している<ref>{{Cite web|url=https://keisobiblio.com/2016/11/28/jeanbauberot-conference01/2/|title=ジャン・ボベロ来日講演録「続発するテロに対峙するフランスのライシテの現状と課題」|accessdate=2018年9月24日|publisher=2016年11月28日. 勁草書房編集部}}</ref>。
 
[[フランソワ・オランド]]政権下で[[国民教育省|国民教育]]相を務めた哲学者([[モーリス・メルロー=ポンティ]]研究の専門家)・政治家([[社会党 (フランス)|社会党]]所属)の[[ヴァンサン・ペイヨン]]は[[2013年]]に「ライシテ憲章」を作成したことでも知られるが<ref>{{Cite web|url=https://ovninavi.com/749news6/|title=ペイヨン教育相、「非宗教性憲章」を発表 {{!}} OVNI{{!}} オヴニー・パリの新聞|accessdate=2018-09-24|website=ovninavi.com|language=ja}}</ref>、[[2010年]]に『共和国のための宗教 ― フェルディナン・ビュイッソンのライックな信仰』と題する著書を発表し、ライシテは近年の教権的・政治的宗教の台頭との関連において新たな宗教戦争の原因になりかねないと言われるが、プロテスタンティズムから社会主義・共和主義に至るビュイッソンの道のりは同時にまた人類史(人間史、ヒューマニティの歴史)を築こうとする意志の表れであり、こうした新たな信仰、すなわち「ライックな信仰」に反宗教的ではないライシテのあり方を見出している<ref>{{Cite news|title="Une religion pour la République. La foi laïque de Ferdinand Buisson", de Vincent Peillon : pour une République spirituelle|url=https://www.lemonde.fr/livres/article/2010/01/25/une-religion-pour-la-republique-la-foi-laique-de-ferdinand-buisson-de-vincent-peillon_1296406_3260.html|work=Le Monde.fr|date=2010-01-25|accessdate=20182020-0908-2417|language=fr-FR|workauthor=LeNicolas Monde.frWeill}}</ref><ref>{{Cite book|author=Vincent Peillon|title=Une religion pour la République. : laLa foi laïque de Ferdinand Buisson|date=|year=2010|accessdate=|publisher=LeÉditions du Seuil|author2author=Vincent Peillon|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9language=fr}}</ref>。
 
これまでビュイッソン研究はその宗教思想の研究が主流であったが、尾上雅信は著書『フェルディナン・ビュイッソンの教育思想 ― 第三共和政初期教育改革史研究の一環として』(2007) において彼の教育思想とその形成過程について論述し、これにより、第三共和制期教育改革を(従来の政治史・社会史または現代社会学のアプローチでは見落とされがちであった)教育学の立場から読み解き、その思想構造の解明を試みている<ref name=":36" />。
 
== 著書 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* 尾上雅信『フェルディナン・ビュイッソンの教育思想 ― 第三共和政初期教育改革史研究の一環として』[[東信堂]], 2007年。
* 手戸聖伸[[doi:10.20716/rsjars.78.1_45|フェルディナン・ビュイッソンにおける「道徳」と「宗教」、あるいは「人類」の逆説」[[日本宗教学会]]『宗教教育』2004年78巻1 、[[日本宗教学会]]、2004年6月30日、45-69頁。
* 小山勉[[doi:10.15017/2014|教育闘争と知のヘゲモニー - フランス第三共和政期を中心に』[[九州大学]]『法政研究』第61号, [[九州大学]]法政学会、1995年3月20日、313-429頁。
* 大津尚志[[doi:10.14993/00001293|フランスにおけるフェリー退陣以降の道徳・市民教育(1885-1914)」[[武庫川女子大学]]『教育学研究論集』第13号, 巻、[[武庫川女子大学]]、2018年3月21日、1-8頁。
* Isabelle Havelange, Françoise Huguet, Bernadette Lebedeff, BUISSON Ferdinand Édouard, ''Publications de l'Institut national de recherche pédagogique'', 1986, 11, pp. 204-207.
* ジャン・ボベロ来日講演録「続発するテロに対峙するフランスのライシテの現状と課題」[[勁草書房]]編集部, 2016
* Martine Brunet, [https://maitron.fr/spip.php?article24585 BUISSON Ferdinand, Édouard], ''Maitron''.
* Patrick Cabanel, ''Ferdinand Buisson: Père de l'école laïque'' (フェルディナン・ビュイッソン ― ライックな学校の父), Labor et Fides, 2016
* Vincent Peillon, ''Une religion pour la République : la foi laïque de Ferdinand Buisson'' (共和国のための宗教 ― フェルディナン・ビュイッソンのライックな信仰), Le Seuil, 2010
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wikisourcelang|fr|Auteur:Ferdinand Buisson}}
* [[ジュール・フェリー]]
* [[政教分離法]]
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{{ノーベル平和賞受賞者 (1926年-1950年)}}
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[[Category:フランスの政治家]]