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[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]][[ジョン・カルフーン]]の妻、{{仮リンク|フローリデ・カルフーン|en|Floride Calhoun}}が率いる「'''[[ペティコート]]'''」と呼ばれる女性たちは、社会的に疎外された当時の[[アメリカ合衆国陸軍長官|戦争長官]]の[[ジョン・ヘンリー・イートン]]と[[マーガレット・オニール・イートン|ペギー・イートン]]の結婚に至るまでの経緯について、「閣僚夫人の道徳的基準」を満たしていないとして、拒否反応を示した。
 
事件はジャクソン政権全体に動揺を広げ、最終的に1人を除くすべての閣僚の辞任につながった。[[マーティン・ヴァン・ビューレン]]は大統領になる機会を得た一方で、ジョン・カルフーンが大統領志望の全国的な政治家から南部州の地域的な政治家に変容するきっかけにもなった。
 
 
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イートンが正式に辞職する前日の6月17日に『ユナイテッド・ステイツ・テレグラフ』紙はインガム、ブランチ、[[ジョン・バーリン|ジョン・M・バーリン]]([[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]])の家族がイートン氏との付き合いを拒否したことが「証明された」という記事を掲載した。イートンは3人の男性全員に記事について回答するように催促する手紙を書いた{{sfn|Snelling|1831|p=199}}。インガムは情報源ではないが、記事のとおりだと述べて軽蔑的な手紙を送り返した{{sfn|Snelling|1831|pp=199-200}}。
 
6月18日にイートンは義理の兄弟のフィリップ・G・ランドルフを通じて、インガムに[[決闘]]を申し込んだ。ランドルフはインガムを2度訪問し、2度目の訪問時には、もし決闘に応じなかった場合は危害を加えると脅迫した。ランドルフは退去させられ、インガムはその翌朝に不快げに招待を辞退するメモを送り{{sfn|Snelling|1831|p=200}}、状況を「哀れみと軽蔑」の一つとして説明した。イートンはインガムを臆病だと非難する手紙を書いて返送した{{sfn|Parton|1860|p=366}}。インガムはその後、イートンやランドルフらが自分を襲撃しようとしていることを知らされた。彼は[[ボディーガード]]を集め、すぐには危害を加えられなかった。しかし、その次の二晩でイートンとその部下たちはインガムの家に潜伏を続け、脅迫してきたという。インガムはひとまず街を出て、その後に無事に家に戻った{{sfn|Snelling|1831|p=200}}。インガムは起きたことをジャクソンに伝え、ジャクソンはイートンにこの訴えについて回答するように求めた。イートンはインガムが滞在していた場所を「通り過ぎた」ことは認めたものの、「しかし、侵入しようとしなかったし(中略)、包囲することもなかった。」と話した{{sfn|Remini|1981|p=320}}。
 
Ingham communicated to Jackson his version of what took place, and Jackson then asked Eaton to answer for the charge. Eaton admitted that he "passed by" the place where Ingham had been staying, "but at no point attempted to enter ... or besiege it."{{sfn|Remini|1981|p=320}}
 
== 影響 ==