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== 解決 ==
ヴァン・ビューレンが辞職を申し出て、イートンにも同様に辞職するように提案した。ジャクソンは反イートン派の他の閣僚にもこれに追随するよう求め、内閣を再編成することになった<ref name="historynet" />。[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]の[[ウィリアム・テイラー・バリー]]はイートン夫妻に味方していたため、残留した唯一の閣僚
イートンが正式に辞職する前日の6月17日に『ユナイテッド・ステイツ・テレグラフ』紙はインガム、ブランチ、[[ジョン・バーリン|ジョン・M・バーリン]]([[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]])の家族がイートン氏との付き合いを拒否したことが「証明された」という記事を掲載した。イートンは3人の男性全員に記事について回答するように催促する手紙を書いた{{sfn|Snelling|1831|p=199}}。インガムは情報源ではないが、記事のとおりだと述べて軽蔑的な手紙を送り返した{{sfn|Snelling|1831|pp=199-200}}。6月18日にイートンは義理の兄弟のフィリップ・G・ランドルフを通じて、インガムに[[決闘]]を申し込んだ。ランドルフはインガムを2度訪問し、2度目の訪問時には、もし決闘に応じなかった場合は危害を加えると脅迫した。ランドルフは退去させられ、インガムはその翌朝に不快げに招待を辞退するメモを送り{{sfn|Snelling|1831|p=200}}、状況を「哀れみと軽蔑」の一つとして説明した。イートンはインガムを臆病だと非難する手紙を書いて返送した{{sfn|Parton|1860|p=366}}。インガムはその後、イートンやランドルフらが自分を襲撃しようとしていることを知らされた。彼は[[ボディーガード]]を集め、すぐには危害を加えられなかった。しかし、その次の二晩でイートンとその部下たちはインガムの家に潜伏を続け、脅迫してきたという。インガムはひとまず街を出て、その後に無事に家に戻った{{sfn|Snelling|1831|p=200}}。インガムは起きたことをジャクソンに伝え、ジャクソンはイートンにこの訴えについて回答するように求めた。イートンはインガムが滞在していた場所を「通り過ぎた」ことは認めたものの、「しかし、侵入しようとしなかったし(中略)、包囲することもなかった。」と話した{{sfn|Remini|1981|p=320}}。
== 影響 ==
[[File:Mvanburen.jpeg|thumb|Secretary of State Martin Van Buren supported the Eatons, aiding in his rise to the presidency.]]
1832年にジャクソンはヴァン・ビューレンを[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐イギリス公使]]に指名した。カルフーンは同点決選投票でヴァン・ビューレンを「完全に葬る」ために反対票を投じて、彼の指名承認を葬り去った{{sfn|Latner|2002|page=108}}。しかし、このことはヴァン・ビューレンを主にイートン問題に根ざしたつまらない権力闘争の犠牲者に見せただけだった。ジャクソンのヴァン・ビューレンに対する評価がさらに高まることになった{{sfn|Meacham|2008|pp=171–175}}。ジャクソンが[[1832年アメリカ合衆国大統領選挙|1832年の大統領選挙]]で再選された際に、ヴァン・ビューレンは副大統領に任命された。
In 1832, Jackson nominated Van Buren to be Minister to Great Britain. Calhoun killed the nomination with a tie-breaking vote against it, claiming his act would "...kill him, sir, kill him dead. He will never kick, sir, never kick."{{sfn|Latner|2002|page=108}} However, Calhoun only made Van Buren seem the victim of petty politics, which were rooted largely in the Eaton controversy. This raised Van Buren even further in Jackson's esteem.{{sfn|Meacham|2008|pp=171–175}} Van Buren was nominated for vice president, and was elected as Jackson's running mate when Jackson won a second term in [[1832 United States presidential election|1832]].<ref>{{cite web |url=http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1832 |title=Election of 1832 |last1=Woolley |first1=John |last2=Peters |first2=Gerhard |publisher=American Presidency Project |access-date=July 20, 2017}}</ref> Van Buren thus became the ''de facto'' heir to the presidency, and succeeded Jackson in 1837.▼
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Although Emily Donelson had supported Floride Calhoun, after the controversy ended Jackson asked her to return as his official hostess; she resumed these duties in conjunction with Sarah Yorke Jackson until returning to Tennessee after contracting tuberculosis, leaving Sarah Yorke Jackson to serve alone as Jackson's hostess.
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