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ジャクソンがイートン夫妻に同情的だったのは、亡き妻レイチェルがジャクソンと結婚する前に、合法的に離婚していたかが大統領選挙キャンペーン中に疑われ、中傷の対象になったことが一部関係していた。ジャクソンはこの攻撃が大統領に選出されてから数週間後の1828年12月22日のレイチェルの死の原因になったと信じていた<ref>{{cite book |last=Gripsrud |first=Jostein |date=2010 |title=Relocating Television: Television in the Digital Context |url=https://books.google.com/books?id=k84q2Ems18MC&pg=PA202 |location=New York, NY |publisher=Routledge |page=202 |isbn=978-0-415-56452-6}}</ref><ref>{{cite book |last1=Mattes |first1=Kyle |last2=Redlawsk |first2=David P. |date=2014 |title=The Positive Case for Negative Campaigning |url=https://books.google.com/books?id=tkUZBgAAQBAJ&pg=PA74 |location=Chicago, IL |publisher=University of Chicago Press |page=74 |isbn=978-0-226-20202-0}}</ref>。
 
カルフーンがジャクソン政権内部の最大の反対者だったので、ジャクソンはカルフーンら反ジャクソン派が政治的影響力を得ようとしてペギー・イートン論争問題を煽っているように感じた<ref name="historynet" />。カルフーンの支持者で『ユナイテッド・ステイツ・テレグラフ』の編集者である{{仮リンク|ダフ・グリーン|en|Duff Green}}はイートンがカルフーン派の閣僚である[[サミュエル・インガム (財務長官)|サミュエル・インガム]]([[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]])と[[ジョン・ブランチ]]([[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]])を解任させるように仕組んだと非難した{{sfn|Snelling|1831|p=194}}。
 
イートンはカルフーンに報復した。1830年にカルフーンが戦争長官として、1818年に[[フロリダ州|フロリダ]]に侵攻したジャクソンに対する批判を支持すると明言したという報告が出された。このことはジャクソンを激怒させた{{sfn|Cheathem|2008|p=29}}。カルフーンは[[セミノール戦争]]時のジャクソンとのやり取りを自身が公表する可能性について、イートンにジャクソンと接触するように頼んだ。イートンは何もしなかった。これにより、カルフーンはジャクソンが手紙の出版を承認したと信じ込んだ{{sfn|Remini|1981|pp=306-307}}。カルフーンはその内容を『ユナイテッド・ステイツ・テレグラフ』に公表した<ref name="John C. Calhoun, 7th Vice President (1825–1832)">{{cite web |url= https://www.senate.gov/artandhistory/history/common/generic/VP_John_Calhoun.htm |title= John C. Calhoun, 7th Vice President (1825–1832) |publisher= United States Senate |access-date= May 7, 2016}}</ref>。これらの出版物はカルフーンが陰謀に対して自分自身を正当化しようとしているように見えたので、ジャクソンをさらに激怒させた{{sfn|Remini|1981|pp=306-307}}。
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1832年にジャクソンはヴァン・ビューレンを[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐イギリス公使]]に指名した。カルフーンは同点決選投票でヴァン・ビューレンを「完全に葬る」ために反対票を投じて、彼の指名承認を葬り去った{{sfn|Latner|2002|page=108}}。しかし、このことはヴァン・ビューレンを主にイートン問題に根ざしたつまらない権力闘争の犠牲者に見せただけだった。ジャクソンのヴァン・ビューレンに対する評価がさらに高まることになった{{sfn|Meacham|2008|pp=171–175}}。ジャクソンが[[1832年アメリカ合衆国大統領選挙|1832年の大統領選挙]]で再選された後、ヴァン・ビューレンは副大統領に任命された<ref>{{cite web |url=http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1832 |title=Election of 1832 |last1=Woolley |first1=John |last2=Peters |first2=Gerhard |publisher=American Presidency Project |access-date=July 20, 2017}}</ref>。ヴァン・ビューレンはこのようにして大統領の「事実上の」後継者となり、1837年にジャクソンから引き継いだ。
 
エミリー・ドネルソンはフローリデ・カルフーンを支持していたが、問題が解決した後、ジャクソンは彼女に公式のホステスとして戻るように頼んだ。彼女は結核にかかってテネシーに戻るまでサラ・ヨーク・ジャクソンと共同で任務を再開した。
Although Emily Donelson had supported Floride Calhoun, after the controversy ended Jackson asked her to return as his official hostess; she resumed these duties in conjunction with Sarah Yorke Jackson until returning to Tennessee after contracting tuberculosis, leaving Sarah Yorke Jackson to serve alone as Jackson's hostess.