「折田平内」の版間の差分

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{{No footnotes|date=2015年9月}}
{{政治家
{{Infobox 人物
|name人名 = 折田 平内
|各国語表記 = おりた へいない
|image= Heinai Orita.jpg
|画像サイズ =200px Heinai Orita.jpg
|画像サイズ = 200px
|caption= 開拓大書記官の頃の折田平内
|画像説明 = 1880年頃撮影
|birth_date= [[1847年]][[1月23日]]
|国略称 = {{JPN1947}}
|death_date= [[1905年]][[5月7日]]
|birth_date生年月日 = [[1847年]][[1月23日]]
|birth_place出生地 = [[薩摩国]][[鹿児島城]]下[[山下町 (鹿児島市)|山下町]]
|death_place=
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1847|1|23|1905|5|6}}
|occupation=[[政治家]]
|死没地 =
|出身校 =
|前職 = [[薩摩藩|薩摩]][[藩士]]<br/>[[開拓使]]官僚<br/>内務官僚
|現職 =
|所属政党 =
|称号・勲章 = [[正四位]]<br/>[[勲等|勲二等]][[瑞宝章]]<br/>[[錦鶏間祗候]]
|配偶者 =
|子女 =
|親族(政治家) =
|サイン =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 = JPN1889
|職名 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
|選挙区 = 勅選議員
|当選回数 =
|就任日 = [[1899年]][[1月23日]]
|death_date退任日 = [[1905年]][[5月76]]
|国旗2 =
|職名2 = 官選第9代 [[滋賀県知事一覧|滋賀県知事]]
|就任日2 = [[1897年]][[4月7日]]
|退任日2 = [[1899年]]4月7日
|国旗3 =
|職名3 = 官選第3代 [[広島県知事一覧|広島県知事]]
|就任日3 = [[1896年]][[4月23日]]
|退任日3 = [[1897年]]4月7日
|国旗4 =
|職名4 = 官選第7代 [[栃木県知事一覧|栃木県知事]]
|就任日4 = [[1889年]][[12月24日]]
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|国旗5 =
|職名5 = 第6代 [[警視総監]]
|就任日5 = [[1888年]][[10月24日]]
|退任日5 = [[1889年]][[10月25日]]
|元首職5 = [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
|元首5 = [[山県有朋]]<br/>[[松方正義]]
|国旗6 =
|その他職歴1 = 官選第2代 [[福島県知事一覧|福島県知事]]
|就任日6 = [[1886年]][[7月19日]]
|退任日6 = [[1888年]][[10月19日]]
|国旗7 =
|その他職歴2 = 第2代 [[山形県知事一覧|山形県令]]
|就任日7 = [[1882年]][[7月13日]]
|退任日7 = [[1886年]]7月
}}
'''折田 平内'''(おりた へいない、[[1847年]][[1月23日]]([[弘化]]3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]])<ref>参考文献『日本人名大辞典』463頁。</ref> - [[1905年]]([[明治]]38年)[[5月76日]]<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E6%8A%98%E7%94%B0%E5%B9%B3%E5%86%85-1064178|title=折田平内|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2020-8-23}}</ref>)は、[[明治時代]]の[[政治家]]。[[薩摩藩|薩摩]][[藩士]]。[[開拓使|開拓]][[書記官|大書記官]]、内務書記官、[[警視総監]]を務め、[[山形県庁|山形]][[県令]]、[[福島県庁|福島]]・[[栃木県庁|栃木]]・[[広島県庁|広島]]・[[滋賀県庁|滋賀県]][[都道府県知事|知事]]など多くの官選知事を歴任。後に[[貴族院 (日本)#勅選議員|貴族院勅選議員]]となる。
 
== 生涯 ==
[[薩摩国]][[鹿児島城]]下[[山下町 (鹿児島市)|山下町]](現在の[[鹿児島県]][[鹿児島市]]山下町)に生まれる。[[勤皇]]を志して、 諸国の名士と交流を持ち、[[黒田清隆]]の門下であった。[[1872年]][[12月 (旧暦)|12月]]に[[開拓使]]八等出仕となる。[[1872年]][[8月 (旧暦)|8月]]に開拓大主典、[[1873年]][[10月]]に七等出仕となり、[[1875年]][[8月8日]]に開拓幹事。[[1877年]][[1月]]に開拓権少書記官となり、翌[[1878年]][[11月]]に権大書記官となる。
 
開拓使廃止後、[[1882年]]に[[内務省 (日本)|内務]]大書記官となり、同年[[7月]]から[[1883年]][[7月]]まで[[山形県知事|山形県令]]、その後[[福島県知事一覧|福島県知事]]に任ぜられる。[[1888年]][[10月]]に[[三島通庸]]の後の[[警視総監]]となる。三島と同じ薩摩人であったからとも、関係の深い黒田清隆が首相に就いたためともいわれる(黒田が退陣すると折田も警視総監を辞めた)。[[1889年]][[12月24日]]から[[1894年]][[1月20日]]まで栃木県知事、[[1896年]][[4月23日]]から[[1897年]][[4月7日]]まで広島県知事、[[1897年]][[4月7日]]から[[1899年]][[4月7日]]まで滋賀県知事を歴任する。[[1900年]]5月8日、[[錦鶏間祗候]]に任じられた<ref>『官報』第5053号、明治33年5月9日。</ref>。
 
その他、1894年[[1月23日]]に貴族院議員に勅選され<ref>『官報』第3169号、明治27年1月24日。</ref>、在任中の1905年5月76日に死去した。[[享年]]60。
 
== 栄典・受章・受賞 ==
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*福島県立会津高等学校70周年記念誌
{{-}}
{{山形県知事|第2代:1882-18831886|令}}
{{福島県知事|官選第2代:18831886-1888}}
{{警視総監|第6代:1888-1889}}
{{栃木県知事|官選第7代:1889-1894}}
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[[Category:錦鶏間祗候]]
[[Category:開拓使の人物]]
[[Category:正四位受位者]]
[[Category:勲二等瑞宝章受章者]]
[[Category:勲三等瑞宝章受章者]]