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{{戦車
| 名称= 九七式中戦車 チハ
| 画像= [[ファイル:Type- 97 ShinHoTo Chi-ShinhotoHa -ChiHa-Aberdeen.0003dtwq Patriot Museum, Kubinka (38251002671).jpg|250px300px]]
| 説明= 元・[[クビンカ戦車第26連隊所属の博物館]]に展示されている九七式中戦車(新砲塔チハ)チハ改
| 全長= 5.55 [[メートル|m]]
| 車体長= 5.52 m
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== 開発 ==
[[ファイル:Type 97 Chi-Ha in museums.jpg|thumb|270px|遊就館に展示される九七式中戦車、サイパン島で全滅した戦車第9連隊所属の1輌]]
各国の陸軍が採用する戦車の多くが[[ガソリンエンジン]]だった時代に、[[空冷エンジン|空冷]][[ディーゼルエンジン]]を搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは[[燃料]]に揮発性の高い[[ガソリン]]でなく[[軽油]]を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、また高い[[オクタン価]]のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。さらに空冷方式の採用については、想定戦場である[[満州]]において「水冷する方式は冷却水の補充や凍結による故障の心配があるので、空冷式を採用することができれば理想的である」<ref> 原典:原乙未生、栄森伝治 共著『日本の戦車 下』出版共同社 1961年 28ページ。『日本陸軍の戦車』ストライクアンドタクティカルマガジン2010年11月号別冊 2010年10月13日第7巻第9号(通算48号) 株式会社カマド 36ページ</ref>と見做され、また、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であったという経緯があった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。
 
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その後も戦闘によって日本軍戦車の消耗は続き、7月9日には戦車の完全喪失が30輌に達したことを知った関東軍が、このままでは虎の子の戦車部隊が壊滅すると懸念し「7月10日朝をもって戦車支隊を解散すること」との両連隊に対する引き揚げを命じた{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1697}}。第4戦車連隊連隊長の[[玉田美郎]]大佐らはこの命令を不服としたが、関東軍の決定は覆らず、ノモンハンでの日本軍戦車隊の戦績はここで終局をむかえることとなった{{Sfn|古是|2009|p=182}}。戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死し戦車15輌喪失し戦場を後にしたが{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1559}}、九七式中戦車は投入された4輌のなかで撃破されたのは吉丸の連隊長車の1輌のみであった{{Sfn|加登川|1974|p=186}}。
 
日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」「日本の戦車はピアノ線にひっかかって全滅した」「一戦に敗れ、引き下がった」「戦場から追い返された」などの辛辣な声がかけられたこともあって{{Sfn|加登川|1974|p=188}}、戦後に作家の[[司馬遼太郎]]に「もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた[[八九式中戦車]]団が、雲霞のようなソ連の[[BT戦車]]団に戦いを挑んだのである{{Sfn|司馬|2004|pp=179-180}}」「(日本軍の戦車砲は)撃てども撃てども小柄なBT戦車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中戦車はBT戦車の小さくて素早い砲弾のために一発で仕止められた。またたくまに戦場に八九式の鉄の死骸がるいるいと横たわった。戦闘というより一方的虐殺であった{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版523}}」などと著作に書かれるなど、事実相違した印象が広まることとなった。
 
なお、司馬は[[学徒出陣]]で戦車隊士官となり九七式中戦車にで訓練をしていたが、九七式中戦車が終生まで強い印象として残っていたようで、著作に「同時代の最優秀の機械であったようで{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版474}}」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}」と称賛する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力もないに等しかった」と罵倒するなど愛憎入り混じった評価をしている{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}。また、戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版922}}、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1409}}。戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも積極的に出席していた{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1384}}。[[戦車第1連隊]]のときの司馬の元上官で、戦後に[[AIG損害保険|AIU保険]]の役員となった宗像正吉は、歴史研究家[[秦郁彦]]からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1392}}。
 
=== 太平洋戦争初期 ===
[[ファイル:Battle of Bukit Timah.jpg|thumb|270px|シンガポールの戦い([[ブキッ・ティマ|ブキテマ高地の戦い]])におけるチハ]]
太平洋戦争緒戦のマレー作戦においては、上陸した[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]の先頭を進軍する[[捜索連隊|捜索第5連隊]]([[連隊|連隊長]][[佐伯静雄]][[中佐|陸軍中佐]]、[[九七式軽装甲車|九七式軽装甲車 テケ]]8輌を主力装備とする機械化部隊。本作戦ではさらに砲兵・工兵隊が付随し「佐伯挺進隊」を構成)および、同連隊長の指揮下に入った[[戦車第1連隊]]第3中隊(九七式中戦車10輌、九五式軽戦車2輌装備)からなる「特別挺進隊」(兵力600人程)が、英印軍2個[[旅団]](兵力約6,400人・[[火砲]]60門・装甲車90両等)が守備し[[鉄条網]]や[[地雷]]が張り巡らされ、「小[[マジノ線]]」とも謳われた[[イギリス軍]]・[[英印軍|イギリス・インド軍]]の強力な国境陣地である[[ジットラ・ライン]]を1日で突破・制圧([[マレー作戦#ジットラ・ライン突破]])した。
 
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=== 太平洋戦争後期 ===
[[ファイル:JapanAmerican typeSherman 97tank 1after destroying a Japanese tank.jpg|thumb|硫黄thumb|270px|ルソン島の戦いにおいてアメリカ軍に[[鹵獲]]され撃破し九七式中戦車第26連隊の新砲塔チハ。再塗装が)の近くを走われており、当時は第26連隊所属を表「丸に縦矢印」るアメリカ軍部隊M4シャーークが砲塔横に描かれていたン戦車]]
大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。[[サイパンの戦い]]では[[サイパン島]]に配置されていた戦車第9連隊(5個中隊のうち2個中隊は[[グアム島]]に配置)が上陸してきた[[アメリカ海兵隊]]を迎えうった<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=56}}</ref>。上陸初日の1944年6月15日には、海岸付近に配置されていた第4中隊(中隊長[[吉村成夫]]大尉、九七式中戦車11輌、九五式軽戦車3輌)が上陸してきたアメリカ軍海兵隊を攻撃。まだ[[M4中戦車]]が揚陸未済で、装甲の薄い[[LVT|アムトラック]]に戦車砲を搭載したアムタンクとの戦車戦となったがこれを撃破して、海兵隊の幕僚が搭乗していたアムトラックも撃破、アメリカ海兵隊の連隊指揮所まで突入する活躍を見せたが、[[艦砲射撃]]も含めたアメリカ軍の反撃で全滅している<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=57}}</ref>。
大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。[[硫黄島の戦い]]では同島に九七式中戦車(新砲塔チハ)11輌と九五式軽戦車12輌を装備する[[戦車第26連隊]](連隊長[[男爵]][[西竹一]]陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定[[トーチカ]]として待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・[[カモフラージュ|擬装]]し丸万集落周辺で防御陣地を構築して米軍と激戦を交えた。同陣地はのちにアメリカ海兵隊側から、戦車第26連隊に包囲されて大損害を被り全滅の危機に陥った第9海兵連隊第2大隊の大隊長、ロバート・E・クッシュマンJr.中佐の名前から取り、「クッシュマンズ・ポケット」と呼ばれ忌み嫌われた。しかし実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である<ref>秋草鶴次「一七歳の硫黄島」p108</ref>。
 
6月16日夜には、戦車第9連隊主力の30両(九七式中戦車新砲塔チハ1輌、九七式中戦車22輌、九五式軽戦車7輌)が[[タンクデサント]]で夜襲をかけた<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=63}}</ref>。アメリカ軍海兵隊にとっては、開戦以来、初めて受ける大規模な日本軍戦車からの攻撃となったが、この時点では[[M4中戦車]]と大量の[[M3 37mm砲]]と新兵器[[バズーカ]]と対戦車砲を搭載した[[M3 75mm対戦車自走砲]]を揚陸済みであり、十分び態勢を整えていた<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。一方で、攻撃側の戦車第9連隊は不慣れな縦隊突撃を行ったので、たちまち指揮系統が混乱してしまい<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=142}}</ref>、まとまった作戦行動はとれず、4~5輛の戦車が一団としてまとまって突進し、なかには沼地にはまって動けなくなる戦車もあった<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。
[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]では、[[戦車第14連隊]]に所属する第1中隊が、エジョウ集落の周辺で待ち伏せを行い、現れたアメリカ軍戦車部隊に対し約400mの至近距離にて、側面を晒した[[M4中戦車]]を撃破した。この戦闘ではM4中戦車とトラックを8両炎上させ、敵軍を撤退させることに成功しているが、敵の反撃により中隊長車が炎上した<ref>島田豊作・他『戦車と戦車戦』光人社、286ページ~299ページ</ref>。(最終的に連隊は壊滅。)
 
戦車第9連隊の戦車はアメリカ軍が築いていた陣地に突入したが、そこで待ち受けていたのが海兵隊員が装備していた新兵器のバズーカであった。装甲の薄い日本軍戦車にバズーカが命中すると、ほぼ同時に装甲を貫通して内部で炸裂し擱座する戦車が続出した<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=142}}</ref>。M3 37mm砲も威力を発揮して次々と日本軍戦車は撃破されていった。空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、M4中戦車も戦場に到着して、97式中戦車との戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と97式中戦車や[[95式軽戦車]]を撃破していった<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=64}}</ref>。それでも突進を続けて、アメリカ軍に砲兵陣地まで達するところまで達した日本軍戦車を足止めしたのは、[[M101 105mm榴弾砲]]の砲撃と艦砲射撃であった。最後の日本軍戦車は朝7:00に海岸近くまで達して、海上の海軍艦艇から目視することができたので、20発の艦砲射撃が浴びせられた<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。夜が明けて戦場でくすぶる日本軍戦車の中には、まだ戦車兵が生存しているのか砲塔を回転させている戦車もあったが、M3 75mm対戦車自走砲の砲撃によりトドメが刺された。この戦車第9連隊の突撃でアメリカ軍は97名の海兵隊員が死傷した<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。
 
[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]では、[[戦車第14連隊]]に所属する第1中隊が、エジョウ集落の周辺で待ち伏せを行い、現れたアメリカ軍戦車部隊に対し約400mの至近距離にて、側面を晒した[[M4中戦車]]を撃破した。この戦闘ではM4中戦車とトラックを8両炎上させ、敵軍を撤退させることに成功しているが、敵の反撃により中隊長車が炎上した<ref>島田豊作・他『戦車と戦車戦』光人社、286ページ~299ページ</ref>。(最終的に連隊は壊滅。)
 
[[フィリピンの戦い|フィリピン戦]]の[[ルソン島の戦い]]においては、[[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]]の重見支隊(支隊長:[[重見伊三雄]]少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)が[[リンガエン湾]]に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われている。九七式中戦車や[[九五式軽戦車]]の[[九七式五糎七戦車砲]]や[[九八式三十七粍戦車砲]]はM4に命中しても、まるでボールのように跳ね返されたということで、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多く<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=224}}</ref>、日本軍の戦車兵はそのようなM4を「動く要塞」と称して恐れたが<ref>{{Harvnb|加登川幸太郎|1974|p=224}}</ref>。一式四十七粍戦車砲を搭載した九七式中戦車(新砲塔チハ)がしばしばM4を待ち伏せ攻撃で撃破している。1945年1月17日にアメリカ軍第716戦車大隊のA小隊を、[[マンゴー]]の木で隠れていた和田小隊長率いる3輌の九七式中戦車(新砲塔チハ)が攻撃、M4A3の側面装甲を貫通してたちまち2輌を撃破した。しかし、生き残ったM4A3が方向転換し正面を向けたので、3輌の九七式中戦車(新砲塔チハ)はその後60発の砲撃をM4A3に浴びせたが、厚い正面装甲を貫通することができずに1輌ずつ撃破されて、最後は和田小隊長車がM4A3を至近距離で砲撃するため突進して最後は体当たりしたが、結局M4A3の砲撃で撃破されている<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2015|loc=電子版, 位置No.880}}</ref>。
 
末期の1945年4月12日、[[戦車第10連隊]]第5中隊に属するチハ車(57mm砲搭載型)1輌が、同中隊の九五式軽戦車1輌と共に、爆薬を装着したブームを取り付けてM4中戦車に体当たりする[[特別攻撃隊|特攻]]を敢行した([[特別攻撃隊#陸上特攻|戦車特攻]])。同連隊主力は激しい戦闘の末既に壊滅しており、対戦車能力を持つ戦車は皆無であったことから、窮余の策として行われた攻撃である<ref>戦車連隊の第5中隊(砲戦車中隊)は本来対戦車戦闘の主力となるべき砲戦車が配備されるべきところ、砲戦車類の生産と配備の遅れから対戦車能力が欠如した57mm砲搭載型チハ11輌とハ号1輌に自動貨車若干で編成されていた。</ref>。当該地区の地形に依拠したこの攻撃は成功を収め、山下兵団司令部の撤退を成功させた。
 
大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。[[硫黄島の戦い]]では同島に九七式中戦車(新砲塔チハ)11輌と九五式軽戦車12輌を装備する[[戦車第26連隊]](連隊長[[男爵]][[西竹一]]陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定[[トーチカ]]として待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・[[カモフラージュ|擬装]]し丸万集落周辺で防御陣地を構築して米軍と激戦を交えた。同陣地はのちにアメリカ海兵隊側から、戦車第26連隊に包囲されて大損害を被り全滅の危機に陥った第9海兵連隊第2大隊の大隊長、ロバート・E・クッシュマンJr.中佐の名前から取り、「クッシュマンズ・ポケット」と呼ばれ忌み嫌われた。しかし実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である<ref>秋草鶴次「一七歳の硫黄島」p108</ref>。
 
[[沖縄戦]]では、戦車第27連隊に配属された新砲塔チハが14両実戦投入された。昭和20年5月4日の日本軍総攻撃の際に出撃したが、砲弾幕に前進を阻まれ大損害を受けたのちに後退。車体を地中に埋め砲塔射撃で敵を食い止めていたが、逐次撃破されていった。
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ファイル:Japanese mechanized forces marching towards Lo-yang.jpg|大陸打通作戦(一号作戦)における新砲塔チハ
ファイル:USMC-17259.jpg|車体をダグインないし、埋没させ砲塔を固定トーチカとした戦車第26連隊とされる新砲塔チハ(奥)<ref>撮影地は不明ながらも、[[第4海兵師団 (アメリカ軍)|第4海兵師団]]撮影のため硫黄島の戦いの可能性が高い。</ref>。手前は大破し転倒した九四式三十七粍砲。
ファイル:Japan type 97 1.jpg|thumb|硫黄島の戦いにおいてアメリカ軍に[[鹵獲]]された戦車第26連隊の新砲塔チハ。再塗装が行われており、当時は第26連隊所属を表す「丸に縦矢印」の部隊マークが砲塔横に描かれていた
</gallery>
 
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== 現存車両 ==
[[ファイル:Japanese Type 97 Chi-Ha Tank.jpg|thumb|遊就館に展示される戦車第9連隊所属の九七式中戦車、2006年当時の塗装でその後に塗りなおされている]]
日本国内に現存する九七式中戦車の実車は、戦後[[サイパン島]]から還送された[[戦車第9連隊]]所属の57mm砲搭載型が[[靖国神社]]の[[遊就館]]<ref>この遊就館の車両が日本に還送されるまでの経緯については、下田四郎著『慟哭のキャタピラ』に詳しい。</ref>および、[[静岡県]][[富士宮市]]の[[若獅子神社]]([[陸軍少年戦車兵学校]]跡地)に展示されている。また、2005年に[[神奈川県]][[三浦市]]の雨崎海岸の土中より車台部分の残骸が発見され、その後発掘されて[[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]の那須戦争博物館に移送され、展示されている。
 
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* {{Cite book |和書 |author=延吉実 |title=司馬遼太郎とその時代 戦中篇 |date=2002年 |publisher=青弓社 |isbn=978-4787291523|ref={{SfnRef|延吉|2002}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[秦郁彦]] |title=昭和史の秘話を追う |date=2012年 |publisher=PHP研究所 |isbn=978-4569803081|ref={{SfnRef|秦|2012}} }}
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|title=玉砕の島|publisher=光人社|date=2004|ref={{SfnRef|佐藤和正|2014}}}}
*{{Cite book |和書 |author=[[古是三春]] |title=ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相 |date=2009年 |publisher=産経新聞出版 |isbn=4819110675 |ref={{SfnRef|古是|2009}} }}
*{{Cite book |和書 |author=古是三春 |title=ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相 |date=2018年 |publisher=光人社NF文庫 |isbn=978-4819110679|ref={{SfnRef|古是|2018}} }}(2009年出版の文庫版)
*{{Cite book |和書 |author=[[岩城成幸]] |title=ノモンハン事件の虚像と実像 |date=2013年 |publisher=彩流社 |isbn=4779119359 |ref={{SfnRef|岩城}} }}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Type_97_Chi-Ha}}