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[[578年]]([[宣政]]元年)、武帝が死去し、宇文贇(宣帝)が即位すると、鄭訳は開府・内史下大夫に抜擢され、帰昌県公に封じられ、朝政を委ねられた。まもなく内史上大夫に転じ、沛国公に封を進めた。鄭訳は専権をふるい、[[579年]]([[大象 (北周)|大象]]元年)に宣帝が[[洛陽]]に幸したときには、鄭訳は官の資材を勝手に取って私邸を建てた。この罪を問われて再び官爵を剥奪され、民とされた。劉昉がたびたび宣帝に取りなしたため、宣帝は再び鄭訳を召し出し、待遇はもとのとおりとなった。宣帝の命により領内史事をつとめた。
鄭訳は[[楊堅]]と同学の旧交があり、互いに頼りあうようになった。楊堅は宣帝に嫌われていたため、地方への赴任を望んでいた。[[580年]](大象2年)、南征が計画され、鄭訳は元帥に志願した。鄭訳は楊堅を寿陽総管として軍事を監督させるよう宣帝に勧めて、聞き入れられた。5月、楊堅は[[揚州 (古代)|揚州]]総管となった。鄭訳は兵を発して寿陽で楊堅と合流し、ともに[[陳 (南朝)|南朝陳]]を攻撃する計画であった。しかしふたりが[[長安]]から出発しないうちに宣帝が病に倒れると、鄭訳は劉昉と相談して楊堅を宮中に引き入れ、楊堅に[[静帝]]を輔弼させることにした。鄭訳が詔を読み上げると、文武百官はみな楊堅の節度を受けた。いっぽう御正中大夫の[[顔之儀]]は[[宦官]]たちと相談して、[[大将軍]]の[[宇文仲]]を引き入れて輔政にあたらせようとした。鄭訳は宇文仲が静帝のもとにやってきたと知ると、急いで開府の[[
[[581年]]([[開皇]]元年)、文帝(楊堅)が即位して隋が建国されると、鄭訳は手厚い賞賜を受け、子に爵位が与えられ、亡き父兄に贈官があった。しかし鄭訳は厭魅[[巫蠱]]の左道をおこなったと婢に告発され、さらには母と別居したことから不孝を弾劾され、またもや官爵を剥奪された。『[[孝経]]』を読むよう文帝に諭され、母親と同居した。
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