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実父が[[キリスト教|キリスト教会]]の牧師([[オルガン]]演奏家)だった影響もあり、地元キリスト教会の賛美歌合唱隊に所属していた。[[武蔵野音楽大学|武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)]]在学中にニッポンレコードでレコードの吹き込みのアルバイトをしていたことと、[[1932年]]春の音楽学校声楽科の新卒業生を集めて行われた新人音楽会で、[[クルト・ワイル]]の[[三文オペラ]]中の歌、「[[マック・ザ・ナイフ]]」を歌って脚光を浴びたことがきっかけで、作曲家・[[山田耕筰]]にスカウトされ、[[日本コロムビア]]に入社する。
 
コロムビアに入社した当初は、[[ビクターエンタテインメント|日本ビクターレコード(現:ビクターエンタテインメント)]]所属の[[徳山たまき|徳山璉]]のライバルとしてデビュー。当初は歌謡曲路線を中心に活動していたが、アメリカのジャズコーラスユニット「ミルスブラザーズ」の影響を受け、コロムビア(ナカノ)リズムボーイズという中野が培ったジャズ・コーラス・グループを結成。1934(昭和9)年、彼らをバックに歌った「山の人気者」が大ヒットし、ジャズコーラスのジャンルを日本に植えつかせた。ほかのヒット曲には『バンジョーで唄えば』『[[チャイナ・タンゴ]]』(いずれも服部良一作曲)『[[ダイナ (曲)|ダイナ]]』『[[小さな喫茶店]]』。ロサンゼルスオリンピック日本選手団応援歌の「走れ大地を」などがある。また、[[六甲山#六甲颪|六甲颪]]の愛称で知られる[[阪神タイガースの歌|大阪(阪神)タイガースの歌]]を初めて吹き込んだのも中野であった。
 
戦争の激化とともにジャズが制限され1941(昭和16)年ごろにはリズムボーイズが解散。以後は音楽活動も芳しくなく慰問活動で唄うぐらいであった。戦時中は高知の土佐(中部第八十四部隊)に召集された。幸いにも無事帰還する。