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'''常 思徳'''(じょう しとく、[[935年]] - [[999年]])は、[[北宋]]の[[軍人]]。[[本貫]]は[[ベン州 (河南省)|開封府汴州]][[祥符区|浚儀県]]の人
 
== 経歴 ==
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[[淳化]]5年([[994年]])、[[李順 (宋)|李順]]が蜀で反乱を起こすと、思徳は[[夔州]]・[[峡州]]で兵を招集した。思徳の軍が[[達州]][[開江県|新寧県]]に達すると、反乱軍3000人あまりを梁山軍で殲滅した。[[雷有終]]が宋の官軍を率いて[[合州 (重慶市)|合州]]の境に到着すると、反乱軍2万と対峙した。思徳は尹元・[[裴荘]]らとともに雷有終と合流して反乱軍を討ち、合州を平定した。反乱側の田奉正・蘇栄が[[果州]]に拠ったため、思徳はこれを追撃して、800人を斬首した。果州が平定されると、残党が[[渠州]]や広安軍・梁山軍に逃亡した。そこで宋軍は二手に兵を分け、思徳が広安軍・梁山軍を担当し、尹元・裴荘らが渠州を担当した。宋軍は反乱軍の残党を殲滅し、思徳は功績により[[汝州]]刺史に任じられた。
 
しばらくして思徳は環慶路副都部署に転じ、[[邠州]]に駐屯した。[[咸平]]元年([[998年]])、[[李継隆]]とともに兵糧を[[霊州]]に運び込んだ。病のため陳留都監となり、左神武大将軍の位を加えられた。咸平2年([[999(999]])、死去した。享年は65。
 
== 伝記資料 ==