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[[552年]](大宝3年)、侯景の乱が平定されると、{{補助漢字フォント|頠}}は元帝により[[武州]]刺史に任じられた。まもなく[[郢州]]刺史に任じられたが、[[蕭勃]]が北に向かうことを許さなかったため、命を受けることができなかった。まもなく使持節・散騎常侍・都督衡州諸軍事・忠武将軍・衡州刺史に任じられ、始興県侯に進んだ。
 
ときに蕭勃が広州に拠っていたが、元帝は蕭勃に代えて[[王琳 (軍人)|王琳]]を派遣して広州刺史としようとした。王琳が小桂嶺に到達すると、蕭勃は部将の[[孫ヨウ|孫瑒]]を監州として、部下を率いて始興郡におもむき、王琳の軍を避けた。{{補助漢字フォント|頠}}は別にある城に拠り、蕭勃に合流せず、城門を閉ざしたため、蕭勃は怒って兵を派遣して{{補助漢字フォント|頠}}を襲撃し、その財貨と武器を奪った。まもなく許されて始興郡に帰り、再び蕭勃と盟を結んだ。[[554年]]([[承聖]]3年)、{{補助漢字フォント|頠}}は蕭勃に人質を送った。[[557年]]([[太平 (梁)|太平]]2年)、蕭勃が南嶺山脈を越えて[[南康郡]]に進出すると、{{補助漢字フォント|頠}}はその下で前軍都督となり、[[豫章郡]]の苦竹灘に駐屯した。[[周文育]]に敗れて捕らえられ、陳霸先のもとに送られると、縛を解かれて厚遇を受けた。蕭勃の死後、嶺南地方は乱れたため、同地で名声を持つ{{補助漢字フォント|頠}}が使持節・通直散騎常侍・都督衡州諸軍事・安南将軍・衡州刺史に任じられ、始興県侯に封じられて派遣された。嶺南に到着する前に、{{補助漢字フォント|頠}}の子の[[欧陽コツ|欧陽{{JIS2004フォント|}}]]がすでに始興郡を平定していた。{{補助漢字フォント|頠}}は嶺南に入ると、各地の勢力を経略しつつ、広州に進軍した。[[558年]]([[永定 (陳)|永定]]2年)、都督広交越成定明新高合羅愛建徳宜黄利安石双十九州諸軍事・鎮南将軍・平越中郎将・広州刺史に転じた。王琳が郢州に拠って[[蕭荘]]を擁立したが、{{補助漢字フォント|頠}}は海道や東嶺を経由して陳に対する使者を絶やさなかった。[[559年]](永定3年)、散騎常侍の位を受け、都督衡州諸軍事を加えられ、[[開府儀同三司]]に進んだ。[[文帝 (陳)|文帝]]が即位すると、{{補助漢字フォント|頠}}は征南将軍に進み、陽山郡公に改封された。
 
[[563年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]4年)、死去した。享年は66。[[侍中]]・車騎大将軍・[[司空]]・広州刺史の位を追贈された。[[諡]]は穆といった。