「ポルトガルのオトラント遠征」の版間の差分

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== 経緯 ==
{{See also|オトラントの戦い}}
1481年4月8日、 [[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|教皇シクストゥス4世]]は[[教皇勅書]]「''Cogimur iubente altissimo」を出し''、[[イタリア南部]]の[[オトラント]]に侵攻した[[オスマン帝国]]に対する[[十字軍]]を呼びかけた。 教皇の意図は、オトラントを奪還した後、十字軍が[[アドリア海]]を渡海して、ヴァローナ([[アルバニア]]の港町[[ヴロラ]])をも解放することにあった。
 
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翌日9月15日に、教皇はガルシアに手紙を送り、彼の不断の努力と用心深さを称賛した上で、艦隊をヴロラに連れて行き、オスマン軍の基地を攻撃することで、「キリストへの信仰とあなたの名誉、それにあなたの王にふさわしい何か」を成し遂げるように促した。王とは、8月28日に亡くなった[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)]]を指す。教皇はまた、[[モレアス専制公領]]の元君主[[アンドレアス・パレオロゴス]]が国の奪還を始められるようにギリシャに連れて行くこともガルシアに要請した<ref>全ての教皇シクストゥスの手紙の引用元は{{Cite book|first=K. M.|last=Setton|author-link=:en:Kenneth Meyer Setton|location=Philadelphia|publisher=American Philosophical Society|title=The Papacy and the Levant, 1204–1571|volume=2|year=1978|pages=371–72}}</ref>。
 
5月3日にオスマン帝国のスルタン、[[メフメト2世]]が[[メフメト2世#最期|親征中に陣没した]]ため、[[バヤズィト2世#ジェムとの争い、周辺諸国への対応|後継争いが続き]]、ポルトガル艦隊が[[ナポリ]]に到着するまでに、オスマン帝国はすでに撤退していた。
 
 
== 関連項目 ==