「八七式軽爆撃機」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
4行目:
 
== 概要 ==
[[1925年]](大正14年)に日本陸軍は、新型軽爆撃機の開発を中島、川崎、三菱の3社に命じた。三菱では陸軍向けの機体を新規開発する方針だったが、開発に時間がかかりそうだったため、海軍向けとして既に実績のある一三式艦上攻撃機を陸軍向けに改造した機体を提出し、その後新規開発した機体を審査に提供することとした。試作機は[[1926年]](大正15年)3月に完成し、6月には他社の機体との比較審査が行われた。審査の結果、どの機体も要求性能には達していなかったが、性能的にバランスがとれ既に製造されている機体を利用していることから補給が容易であることが評価され、本機が一応採用されることとなった。その後三菱の新規開発機である、[[鷲型試作軽爆撃機|鷲型軽爆撃機]]が完成し本機と比較審査されたが本機の方が性能的に優れていたため、[[1928年]](昭和3年)に八七式軽爆撃機として制式採用された。
 
本機は胴体、翼とも木製骨格に羽布張りの複葉単発機で、機体前部のエンジン周辺だけ金属製となっていた。構造的には旧式だったが、操縦性能が優れており[[満州事変]]の初期まで利用された。しかし、より近代的な[[八八式偵察機]]・[[八八式軽爆撃機]]が導入されたため、以後急速に前線から引き上げられた。生産は[[1929年]](昭和4年)まで行われ、生産機数は48機であった。
生産は[[1929年]](昭和4年)まで行われ、生産機数は48機であった。
 
== 諸元 ==