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== 経過 ==
=== 発端 ===
[[エリザベス1世]]の[[イングランド国教会]]([[監督制]])に飽き足らない人々が徹底的に[[宗教改革]]を主張したのが[[ピューリタン]]の誕生だったが、国教会の改革を考えたのは[[長老派教会|長老派]]で、国教会から分離して独自に宗教改革を行うべきと考えた{{仮リンク|ロバート・ブラウン (宗教家)|en|Robert Browne (Brownist)|label=ロバート・ブラウン}}の一派は[[イングランド国教会の分離派|分離派]]を形成した。教会を共通の信徒の集まりと考え、教会運営を信徒集団に任せる集団政治、および教会の独立自治を唱え下からの改革を主張、国教会の監督制と長老派の[[長老制]]といった上からの教会規制を拒否する姿勢が独立組合教会主義として[[17世紀]]に広まった。やがて分離派の一派である会衆派は独立派と呼ばれたが、独立派から[[バプテスト教会|バプテスト]]・[[アナバプテスト]]・{{仮リンク|[[第五王国派|en|Fifth Monarchists}}]]などが派生、独立派には明確に定義しにくい所がある<ref name="松村352">松村、P352。</ref><ref>岩井(1995)、P109、清水、P9、P29。岩井(2015)、P90。</ref>。
 
独立派の発端は1620年代に始まり、イングランド国教会を国民に強制する国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]と側近の[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]のピューリタンへの弾圧が強まったため、それに危機感を抱きイングランドに居づらくなり、海外へ安住の地を求めたピューリタンが結成したのが独立派で、会衆派の流れをくむ独立派は[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と[[北アメリカ]]・[[ニューイングランド]]の[[マサチューセッツ湾植民地]]に亡命、そこで教会(独立組合教会、ニューイングランド方式とも)を拠点として同志を増やした。背後にはピューリタンのパトロンとなった貴族および[[ジェントリ]]と市場開拓を狙う新興商人と利害が一致した事情もあり、[[ウォリック伯]][[ロバート・リッチ (第2代ウォリック伯)|ロバート・リッチ]]らが支援した{{仮リンク|プロヴィデンス島会社|en|Providence Island Company}}を通してニューイングランドへ入植、人と情報のネットワークを発展させた独立派ピューリタン達は清教徒革命で活躍する人材を提供していった<ref name="松村352"></ref><ref>清水、P10 - P12、岩井(2015)、P11 - P12、P74 - P77、P87 - P91。</ref>。
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一方、政治家のグループにも独立派と目される勢力(政治的独立派)がいて、[[ジョン・ピム]]、[[ジョン・ハムデン]]、[[ヘンリー・ベイン]]、オリバー・クロムウェル、[[ヘンリー・アイアトン]]らがメンバーだった。彼等は独立教会を信奉するピューリタンで、議会派の一方の勢力となった政治的独立派はグッドウィンらが率いる宗教的独立派と結び、軍事改革を通じて軍を掌握し、[[1643年]]のピムとハムデンの死後はクロムウェルをリーダーとして革命を進めていくことになる<ref group="注">ただし、宗教的独立派と政治的独立派が一致するかどうかについては現在も論争が続いている。また、ピムが死亡するとそれまでの議会多数派だった中間派が解体、この時から長老派と独立派の対立が始まるため、独立教会主義者が独立派とも限らない。今井、P204、岩井(2015)、P141 - P142。</ref><ref>松村、P352 - P353、清水、P12、P44 - P45、P73 - P74、岩井(2015)、P113。</ref>。
 
[[1642年]]から始まった{{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}}が進むにつれ、議会派は方針で和平か徹底抗戦かで分裂し対立、貴族など保守的な前者は長老派と、政治的独立派の後者は宗教的独立派と提携した。この対立は1643年に[[スコットランド王国|スコットランド]]の[[国民盟約]]([[カヴェナンター|盟約派]])と結んだ[[厳粛な同盟と契約]]の内容を問う[[ウェストミンスター会議]]で現れ、同盟に基づきイングランドに長老制を導入することに独立派が反対、{{仮リンク|[[平等派|en|Levellers}}]]など他の分離派とも手を組んで[[ニューモデル軍]]を基盤とした政治勢力を結成した。[[1644年]]に[[東部連合]]司令官で[[マンチェスター公爵|マンチェスター伯]][[エドワード・モンタギュー (第2代マンチェスター伯爵)|エドワード・モンタギュー]]の怠慢を副司令官で[[鉄騎隊]]隊長のクロムウェルが議会で非難し、議会でも長老派と独立派の対立が激化すると、独立派はクロムウェルを擁護しマンチェスター伯を庇う長老派に立ちはだかった。やがて[[1645年]]にニューモデル軍創設、[[辞退条例]]制定などで独立派が勢いに乗り、[[ネイズビーの戦い]]で[[騎士党|王党派]]を壊滅させて[[1646年]]に内戦を議会派の勝利で終わらせ、長老派に脅威を与えた<ref name="松村353">松村、P353。</ref><ref>今井、P204 - P209、川北、P194 - P195、松村、P352 - P353、清水、P60、P74、P80 - P97。</ref>。
 
危機感を感じた長老派は独立派の基盤であるニューモデル軍解体を画策、軍内部でも政治構想で独立派と平等派の対立が発生した。[[1647年]]にアイアトンら独立派が『[[建議要目]]』を、平等派が『[[人民協定]]』を起草、[[パトニー討論]]でクロムウェル・アイアトンら独立派と平等派がイングランドの政治改革案で対立、一時は平等派が軍兵士を煽り暴動が起こったが、クロムウェルが素早く鎮圧したおかげで軍は再び独立派が掌握した。[[1648年]]の{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}における[[プレストンの戦い (1648年)|プレストンの戦い]]でスコットランド盟約派と結託した王党派に勝利した軍と独立派は[[プライドのパージ]]で長老派を追放、[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]]を形成して革命の主導権を握った。議会は翌[[1649年]]にチャールズ1世を処刑し[[イングランド共和国]]を樹立、共和国は独立派が主導権を握った<ref group="注">しかし、平等派を始め独立派とは別の分離派(バプテスト、[[アナバプテスト]]、{{仮リンク|真正水平派|en|Diggers}})は共和国に反対、[[クエーカー]]も共和国に抵抗して弾圧された。一時共和国と協力した第五王国派も反対派に加わり、国内に常に不満分子を抱え、オランダなど外国からの反発もあり、共和国は孤立し当初から危機に立たされていた。今井、P221 - P222、川北、P198、清水、P161 - P163。</ref><ref name="松村353"></ref><ref>今井、P209 - P215、川北、P196 - P198、清水、P101 - P103、P105 - P108、P110 - P120、P124 - P125、P136、P151 - P153。</ref>。