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その後[[フリギア]]は[[アッタロス朝|アッタロス朝ペルガモン王国]]の支配下に入ったが、紀元前133年に共和政ローマがそのペルガモンを支配下におくと、ローマはフリギアをアシアと[[ガラティア]]の2属州に分割した。ただしアシア属州はその発足当時から古名のフリギアで呼ばれることの方が多かった。
 
3世紀の[[軍人皇帝時代]]あたりを盛衰の分岐点として、以後のローマは[[ゴート族]]の侵入や[[パルミラ国]]の圧迫などで混乱を極めた。[[ディオクレティアヌス|ディオクレティアヌス帝]]はアシア属州を7つの州に分割したが、そのうち[[エフェソス]]や[[サルディス]]など古くから歴史と伝統を持つ都市部の州が発展した一方で、未開の内陸部に位置する州は衰退することとなった。
 
395年に[[ローマ帝国]]が東西に分裂すると、アシア属州は東方属州として[[東ローマ帝国]]の一部となる。イスラム勢力と国境を接する[[シリア属州]]や[[エジプト属州]]が失われた後も、地中海に面したアシア属州の一部は15世紀に[[オスマン帝国]]に併呑されるまで[[ビザンツ帝国]]の属州として存続した。