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41歳で[[進士]]及第を果たすが、任官せずに流浪生活を送るようになり、[[華北]]地方の[[書院]]を遊歴した。
 
晩年は、[[畢ゲン|畢沅]]の許で地方史書である『湖北通志』を編纂したが、最期は不遇のうちに亡くなった。
 
没後、[[日本]]の中国学の第一人者である[[内藤湖南]]によって、その著書『[[文史通義]]』や『[[校讐通義]]』等が、「'''六経皆史'''」という言葉で表現される独特の史学理論の書として評価されるようになって、清朝の史学者として注目されるようになった。