削除された内容 追加された内容
164行目:
**「わが国憲法制定の歴史中、(板垣が)民選議員の建白に尽力されたことは宜しいが、しかし大久保さんが極端なる専制主義の人で、盛んに圧制政治を行い、立憲政治のことなどは、少しもその念頭になかったように述べてあるが、これは全然間違った話である。(中略)大久保さんは永らく政府の枢軸に立ち、国政上の盤根錯節を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、おおよそ大久保さんほど誤解された人も少ないのである」
**「世間には大久保公を目して圧政家のように思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。大久保公は早くより立憲政体を主唱された有力な一人である」
**「公は中々思慮もあり、決断もあり、軽忽に事を為さないと云う、所謂持長する所の力は余程持って居られた。難事が起これば率先して自ら当たるの人であった」<ref>『伊藤候井上伯山縣候元勲談』</ref>
**「(佐賀の乱、台湾事件等)公は自ら請うてその難局の任に当たられた。こういう大事の時に当たっては、何時も危険を避けず、自ら奮ってその局に投ぜられた。是れは実に公の一種人に異って居った所の特性である」<ref>『伊藤候井上伯山縣候元勲談』</ref>
 
*[[山縣有朋]] 「大久保と云う人は薩人の中にても一種特別なる性格あり。云わば当時文明流の政治家なり。故に動もすれば薩人中には大久保を目して、彼は驕奢に長じたる者なりとか、金殿玉楼を造れりとか云うて誹毀する者あり。大久保の所に往きては茶一つ飲まぬと云う様なる傾きありし。現に今の侯爵大山などもその一人なりき。加うるに征韓論以来二派に分れ、一方は西郷に属して野に下り、一方は大久保に属して朝に留まることとなりしより、自ら政府の為す事は大久保一身に責任を負い、西郷と大久保と確執せしとはなかるべしと雖も、総て反対者より怨を受くるように為りたるなり」<ref name="issho"/>