「青森県新和村一家7人殺害事件」の版間の差分

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事件現場は青森県弘前市大字小友字宇田野496番地・男性X宅{{Sfn|高刑|1958|pp=170-171}}。集落の密集地から数十[[メートル]]離れたリンゴ農園の中にある住宅(約100[[平方メートル]])で{{Sfn|石川清|2015|p=41}}、本事件の加害者であるXの三男'''M・T'''(当時24歳・桶職人 / 以下「M」と表記)<ref name="朝日新聞1953-12-12"/>は事件前年の1952年(昭和27年)に{{Sfn|石川清|2015|p=44}}父X(事件当時57歳)・兄A1(事件当時37歳){{Sfn|石川清|2015|p=42}}によって無一文で家を追い出され、それ以降は日々の食べ物にも困る生活を強いられていた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。
 
M事件前日(12月11日)午後に桶の修理へ出掛け、19時ごろに帰宅してから酒を7,8合ほど飲んで泥酔した{{Efn2|name="酩酊"|ただし、加害者Mは事件当時の酩酊度に関し、警察・検察による取り調べおよび公判で一貫して「当夜は飲酒したが、本心がなくなるほど酔ってはいなかった」と供述している{{Sfn|高刑|1958|p=175}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=2}}。}}{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。そのため、酒のつまみとして[[味噌]]を食べようと思ったが、味噌が切れていたため{{Sfn|石川清|2015|p=43}}、事件当日(12日)1時過ぎごろ{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、Mは父親X(当時57歳)の住む実家へ味噌を盗みに入った{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。しかし実家に隣接する物置小屋へ入ったところ、猟銃{{Efn2|name="猟銃"|[[中折式|中折]]単発式猟銃1挺{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}(口径16&nbsp;mmのグリナー型[[散弾銃]]){{Sfn|石川清|2015|p=41}}。}}と実弾十数発を装備した弾帯が置いてあるのを見つけ、「万が一味噌を盗んだことを父Xや兄A1に知られれば、彼らに猟銃で撃ち殺されるかもしれない」と考え{{Efn2|Mは事件以前から「自分は出来が悪いから父親に憎まれている」と感じていた{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。}}、機先を制して彼らやその家族を射殺することを決意した{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。そして弾帯を腰に帯び、猟銃を持って隣接する実家(住宅)へ侵入し{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、就寝中の父親X{{Efn2|XはMが最初に侵入した部屋で孫(息子A1の長男)A3とともに就寝していたところを襲われた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。事件直後に現場を目撃した親戚(Mが出頭する際に同行した男性)はXの[[脳漿]]が3間(約10&nbsp;m)にわたり飛散した痕跡を目撃していた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}、長兄A夫婦(長兄A1は当時35歳 / 妻A2は33歳){{Efn2|A1・A2夫妻は子供2人(長女A4・次女A5)とともに就寝していたところを襲われた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}と彼らの子供2人(=自身の甥A3および姪A4){{Efn2|長男A3(当時7歳)および長女A4(同5歳){{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。A3の頭部からは弾丸が20発以上(射殺された被害者7人で最多)摘出された{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。}}、自身の祖母Y(同80歳){{Efn2|Mは祖母Yを殺害した際の状況を覚えていなかったが、Yの遺体は射殺された被害者7人の中でも特に損傷が著しく、頭部・顔面が粉砕されていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}と伯母Z(当時61歳){{Efn2|伯母Z(Xの姉)は事件当夜、偶然弟X宅へ遊びに来ていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}の7人を相次いで猟銃で射殺{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。Mはまず就寝していた父A1の頭部を布団から約2, 3尺離れた距離から狙撃してA1を殺害し、A1・A2・A3・A4・Yの5人はいずれも銃声を聞いて布団に潜り込んだところを、布団の中に銃口を挿入して頭部・肩付近を至近距離から撃ち抜いて射殺した{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。そして、伯母Zは道路に面した南西隅の縁側に逃げ込んだが、縁側の隅で腰部を撃たれて射殺されたとされる{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。
 
その後、実家は全焼し、長兄の次女A5(当時3歳 / Mの姪)が焼死した{{Efn2|A1の次女A5は焼死と判明したため、A5への殺人罪では起訴されていない{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=95-96}}。A5は出火時点ではまだ生存しており、家が燃えている最中に現場を目撃した近隣住民が炎の中から子供の泣き声を聞いていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=95-96}}{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。この火災について、仙台高裁秋田支部 (1958) は[[判決理由]]で「Mが就寝中の家人を至近距離から射殺した際、銃口より発された火炎が布団に引火したことで火災が発生し、実家が全焼したものと思われる」と指摘している<ref group="注" name="火災原因"/>{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。
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しかしXは生来、[[吝嗇]]怠惰(りんしょくたいだ){{Efn2|「吝嗇」(りんしょく)とはむやみに金品を惜しむこと、すなわち「ケチ」という意味<ref>{{Cite Kotobank|吝嗇|デジタル大辞泉|accessdate=2020-09-02}}</ref>。}}で酒癖が悪く、[[妾]]を蓄えて家庭を顧みないことが多かったため、家庭内は風波が絶えなかった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。またXは自身の非を決して認めない頑固な性格で、「気に食わない」という理由で一方的に妻を追い出した{{Efn2|仙台高裁秋田支部 (1957) は「Xの[[虐待]]に耐えかねた母親(Xの妻)は1951年(昭和26年)11月ごろに単身実家へ帰り、事実上夫婦別れした」と述べている{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。また石川清 (2015) は「三男Mは父Xから日常的に非人間的な扱いを受けながら生育し、事件前年には母親(Xの妻)の離縁に反対したところ、それを理由に次男(次兄)とともに実家から無一文で追い出された」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=45}}}}{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。家督を相続した長兄A1も、財産全ての独占を図って弟たち(次男や三男M)をことあるごとに嫌忌し、別居を迫ったため、Mは事件前年の1952年7月ごろに実家を出て{{Efn2|この時は裸同然の姿で、わずかに布団・鍋・米一斗をもらい受けたのみだった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、集落の端にある民家{{Efn2|雨もほとんど凌げない粗末な小屋{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。}}{{Sfn|石川清|2015|pp=42-43}}の一間を間借りして別居するようになった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。結果、Xの妻子たちは長男A1を除き、財産分与・生活保障をまともに受けられないまま実家を追い出されていた{{Efn2|当時の集落では新[[民法 (日本)|民法]]で「家族平等の原則」が導入されて以降も、家の財産はすべて長男が継ぐ習慣が残っていた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。Mや彼の次兄(Xの次男)だけでなく、彼らの妹も父Xと兄A1から執拗ないじめを受け、母の許に身を寄せていた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}(1953年秋ごろ以降){{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。}}{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。
 
Mは実家を追い出されて以降、桶屋を職として生活していたが{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、日々の食べ物にも困る暮らしを強いられた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。その間、母親が元夫Xを相手に離婚訴訟を提起したが、そのためにMたちとXの関係はさらに感情的な溝を深めていった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。Mは祖母Yの好意に甘え、わずかに米・味噌などをもらい受けに実家を訪れていたが、それ以外の時にはめったに実家に出入りすることはなかった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。1953年10月ごろ、Mは別の家に間借りを頼んだが断られたため、その家の物置小屋の庇を借り受け、藁を敷いて生活していたが、雨風の強い夜・吹雪が吹く夜はそれらを凌げず、寒さに震えながら一晩中寝ないで身の不幸を泣き明かすこともあった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。しかし父Xや兄A1夫婦はそのような極貧生活に呻吟するMに対し極めて冷淡で、恵むようなことは全くせず{{Efn2|Mは事件数日前、食うに困って実家の兄A1の許を訪ね、「食べ物を分けてくれ」と懇願したが、A1から「乞食みたいな格好でうちの敷居をまたぐな」と罵倒され追い払われた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。}}、Mは彼らの仕打ちに強く憤っていた{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。そのため、Mは1950年(昭和25年)秋ごろ、兄A1から唆されたことで「[[シアン化カリウム|青酸カリ]]で父Xを毒殺しよう」と考えたほか、1953年秋ごろには村の駐在巡査に対し「親の家から物を持って来ても罪になるか」「[[正当防衛]]とは何か」と聞いていた{{Sfn|高刑|1958|p=186}}。また、被害者A2(Mの長兄A1の妻)は1953年[[お盆|旧盆]]の15日ごろ、実家へ遊びに来た際に家人に対し「Mが家の人を全部焼き殺してしまうという話を聞いたので、小友の家へ帰るのが怖い」と話していたことなどから、計画的犯行も疑われたが、青森地裁弘前支部 (1956) は「犯行当夜、Mは一緒に酒を飲んだ者に対し『今晩、実家へ味噌を取りに行く』と話していた点や、現場の物置小屋にあった味噌樽から味噌が詰まった甕が発見された事実などから、本犯行が計画的なものだった(=被告人Mが事件当時、心神喪失でなかった)ことを認めるに足る証拠ではない」と認定している{{Sfn|高刑|1958|pp=186-187}}。
 
このような犯行の背景から、事件当時はMだけでなく次兄・母親も共犯者として嫌疑を掛けられたが{{Sfn|石川清|2015|p=45}}、彼らはアリバイが証明され解放されている{{Sfn|石川清|2015|p=46}}。また事件当時の集落は貧富の格差が激しく{{Efn2|小友集落は当時リンゴ栽培が盛んで{{Sfn|石川清|2015|p=48}}、人口約300人を有し{{Sfn|石川清|2015|p=49}}、青森県内でも屈指の豊かな農村だった{{Sfn|石川清|2015|p=49}}{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。しかし村の8割は極めて裕福だが、残る2割(放逐された次男・三男を含む)は極度の貧困に苛まれていた{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。}}、特に家督を継げなかった次男・三男が最底辺に位置していたため、石川 (2015) は「財産への強い執着を生む風潮が集落で蔓延し、家族内で財産をめぐり日常的な争いが生じた。しかしその後、無一文で放逐された農家の次男・三男の受け皿として村の近くに[[弘前駐屯地|自衛隊基地]]が誘致され、次男・三男の貧困問題は解決されていった」と述べている{{Sfn|石川清|2015|pp=51-52}}。
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なお事件後、本事件の舞台となった弘前市小友地区では肉親の殺人事件が3回にわたり発生した<ref name="朝日新聞1956-04-06"/>。
# 本事件
# 1954年(昭和29年)10月、農家の三男{{Efn2|被害者(三男)は地元で有名な不良で、[[メタンフェタミン|ヒロポン]]中毒で精神病院へ入院していたが、事件の約2週間前に病院を脱走して自宅に逃げていた{{Sfn|石川清|2015|pp=46-47}}。また事件1か月前には父親に対し「[[東京]]へ行くから金を出せ」と迫り、暴力をふるって警察に逮捕されていた{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}が母親に小遣いをせびり、母親をかばおうとした次男{{Efn2|加害者の次男は被害者(三男)とは対照的に、地元では「働き者な孝行息子」として知られており、事件後には集落の人々から同情の声・次男にとって有利な証言が集まった{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}に追い払われた{{Sfn|石川清|2015|pp=46-47}}。これに逆上した三男は[[匕首]]を持って家に戻り、次男を切りつけたが、逆に次男に取り押さえられ、首を絞められ死亡した{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。次男は同事件前にも不良の弟(三男)に制裁を加えようと、[[出刃包丁]]・草刈り[[]]で三男を切りつけ軽傷を負わせていたため、殺人容疑で逮捕されたが{{Efn2|次男は事件後、警察の取り調べに対し「殺意はなかった」と供述していた{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}、後に正当防衛が認められ釈放された{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。
# 1955年(昭和30年)10月、集落の裕福なリンゴ農家の次男が父親に「[[北海道]]へ出稼ぎに行くから金を出せ」と迫り、断られると逆上して父親の首を絞めた{{Sfn|石川清|2015|p=48}}。これに対し父親が咄嗟に鉄[[]]を持って抵抗したところ、そので次男の顎・首を何度も殴り、次男は失血死した{{Sfn|石川清|2015|p=48}}。同事件は被害者(次男)の日ごろの素行の悪さから、本事件と同様に加害者(父親)への同情が集まり、情状酌量により懲役4年の判決が言い渡された{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。
# 1956年(昭和31年)3月、農家の長男(無職){{Efn2|この被害者は過去に強盗・窃盗などを繰り返して[[前科]]5犯の経歴で、3か月前に強盗罪による服役から刑務所を出所したばかりだった{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。また家の金を使い込んで遊び、家財を売り払った金でヒロポンを常用していた{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。}}が遊ぶ金欲しさに自宅から種籾を盗み出したが、母親と弟{{Efn2|加害者の弟は被害者(長男)とは対照的に、集落では模範的な好青年として知られ、約1.2&nbsp;ha(リンゴ園+水田)を耕す一家の大黒柱を担っていた{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。}}に見つかって家を追い出された{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。これに対し、長男は出刃包丁を持ち出して弟を刺し殺そうとしたが、咄嗟に薪割り(長さ30&nbsp;cm)を手にして抵抗した弟に頭を何度も殴られ、頭蓋骨を粉砕されて死亡した{{Sfn|石川清|2015|pp=49-50}}。同事件も集落から加害者への同情が集まり、[[正当防衛]]が考慮される結果となった{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。
それらの事件は(本事件を含め)いずれも農閑期に裕福な農家で発生したもので、「一家の不良を真面目な家族が殺害した」というものだったが{{Sfn|石川清|2015|p=50}}、その(集落で殺人が連続して発生した)事実はほとんど知られていない{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。その背景について、石川清 (2015) は「事件の舞台となった小友集落が帰属していたS村(新和村)は、2件目の殺人と3件目の殺人の間にH市(弘前市)と合併した<ref group="注" name="合併"/>ため、地元の人間以外から見れば『S村で2件、H市で2年の事件が起きた』ように見えるようになった。同じ小さな集落で連続して4件も肉親殺人が起きたようには見えにくい」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=52}}。また、石川の取材に答えた地元の住民は「本事件と2回目の事件では、殺人を犯したにも拘らず加害者が情状酌量により軽い罪で済み、誰も加害者を非難しなかった。そこで『一家の鼻つまみ者など、いざという時は殺せる』という風潮が生まれ、親の言うことを聞かない不良家族に対し『殺されるぞ』という脅しの言葉が家庭内で日常的に口にされるようになった」と証言している{{Efn2|これを受け、石川は「一連の肉親殺人の背景には、家庭内の不良を成敗するための一種の“[[私刑]]”(リンチ)という側面があったのかもしれない」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。}}{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。