「スパイク・リー」の版間の差分

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== 経歴 ==
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[[ジョージア州]][[アトランタ]]で、[[ジャズ]]・ミュージシャンである父ウィリアム・ジェームス・エドワーズ・リー三世、通称[[ビル・リー (ミュージシャン)|ビル・リー]]と[[教師]]であると同時に作家でもある母ジャクリーン・シェルトンの間に生まれた。幼い頃に家族で[[ニューヨーク]]の[[ブルックリン区|ブルックリン]]に転居している。ブルックリンのフォート・グリーン地区は、彼が設立した映画製作会社である40エーカー・アンド・ア・ミュール・フィルムワークスが運営されている場所で、他にリー自身が所有するビジネス、リーに関連するビジネスの多くも同地区を本拠地にしている。リーは幼少期に母親に「スパイク」というあだ名をつけられた。ブルックリンのジョン・デウェイ高校に通った後、最初の作品『ラスト・ハッスル・イン・ブルックリン』を製作した頃には、アトランタの[[モアハウス大学]]で学んでいた。彼は[[クラーク・アトランタ大学]]でも映画のコースを取り、モアハウス・カレッジで[[マスメディア|マスコミ]][[学士]]の[[学位]]を取得した。その後[[ニューヨーク]]に戻り、[[ニューヨーク大学]]の[[ティッチ・スクール・オブ・アート]]に入学し、[[1982年]]に[[ファインアート|ファインアーツ]]の[[修士]]を得て卒業修了している。
 
彼が大学院卒業修了課題のために製作した[[映画]]は『[[ジョーズ・バーバー・ショップ]]』で、学生が製作した映画として初めて[[リンカーン・センター]]でのニュー・ディレクター・ニュー・フィルム・フェスティバルに出品された。この映画は全米の大学生・大学院生を対象にした学生アカデミー賞でも大賞を受賞している。[[1985年]]、スパイク・リーは初めての商業映画に挑戦した。『[[シーズ・ガッタ・ハヴ・イット]]』は予算16万ドルで製作され公開期間はわずかに2週間という悪条件にもかかわらず、翌[[1986年]]に公開された時には700万ドルを超える興行成績を残しスパイク・リーの才能のほどを世間に知らしめた。10年代にnetflixの新シリーズとしてリメイクもされることになる。
 
『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』の成功が、スパイク・リーの[[コマーシャルメッセージ|CM]][[監督]]としての新たな[[経歴|キャリア]]につながっていく。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を見たスポーツシューズ・メーカー[[ナイキ]]のマーケティング部門が、ナイキのCM撮影を彼に依頼したのである。ナイキは、『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』に登場する[[マイケル・ジョーダン]]狂のキャラクター、マーズ・ブラックモン(リー本人が演じた)を[[エア・ジョーダン]]のCMでジョーダン本人と共演させようと考えたのだった。