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'''高坂 昌元'''(こうさか まさもと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[甲斐国]][[武田氏]]の家臣で[[譜代家老]]衆。[[春日虎綱|高坂昌信]](春日虎綱)の次男である。名は'''信達'''(のぶさと/のぶたつ<ref>『戦国人名辞典』[[吉川弘文館]]、2006年</ref>)ともいわれる。また、父の昌信も高坂姓を名乗ったのはわずかな期間であり、晩年は春日姓であったことから、'''春日昌元'''('''春日信達''')が正しい名乗りと思われる。
 
== 略歴 ==
[[武田信玄]]期の譜代家老で[[信濃国|信濃]][[海津城]]の[[城代]]であった春日虎綱の次男として生まれる。長兄の昌澄が[[天正]]天正3年([[1575年]])5月の[[長篠の戦い]]で戦死したために世子となる。[[武田勝頼|勝頼]]期には[[越後上杉氏]]の[[御館の乱]]において出兵し、虎綱は[[上杉景勝]]との外交[[取次 (歴史学)|取次]]を務めていたが、天正6年([[1578年]])5月に虎綱は死去し、昌元は[[家督]]・海津[[城代]]を継承して上杉方との外交を務め、[[甲越同盟]]の締結に至る。
 
翌天正7年([[1579年]])3月までには海津城代が[[安倍宗貞]]に交代し、[[駿河国]]東端の[[三枚橋城]]([[静岡県]][[沼津市]])の城代となり北条氏に対処する。
 
『[[甲陽軍鑑]]』によれば、天正10年([[1582年]])2月から[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が開始されると、昌元は2月28日に三枚橋城を放棄して本国である[[甲斐国|甲斐]]防衛の為に[[新府城]]([[山梨県]][[韮崎市]]中田町中條)に馳せ参じて勝頼と同行を願い出るが、勝頼側近の[[長坂光堅]]の進言により退けられたという。『甲陽軍鑑』ではこれを勝頼が甲斐国田野で滅亡した3月11日の5日前(3月6日)としているが、『[[理慶尼|理慶尼記]]』によれば、この時点で勝頼一行は駒飼宿([[甲州市]]大和町日影)に移動しているため、これ以前の出来事であったと考えられている。
そこで森長可は昌元の息子である森庄助(森姓は森長可が[[烏帽子親]]の為)をはじめとする人質を使って交渉の席を作り出し、家臣である[[大塚丹後守|大塚次右衛門]]を一揆衆への交渉役として遣わせる。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であり、ひとまず[[松本市|松本]]での人質の解放は約束されたが「森軍には手出しをしない」という条件を飲まされる事となった。しかし一揆衆は納得しておらず[[猿ヶ馬場峠]]で森長可と戦に及ぶも撃退される。そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら森長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、松本に着くと約束を反故にし森長可自ら森庄助を殺すと、森軍は他の人質も悉く殺しそのまま北信濃から撤退していった。
 
その後、昌元は上杉景勝に属したが、同年7月に[[相模国]][[後北条氏]]が信濃[[佐久郡]]へ出兵すると、昌元は[[北条氏直]]に内通する。『[[武徳編年集成]]』によれば、昌元は武田遺臣の[[真田昌幸]]により調略されたという。昌元内通の際に後北条氏からの使者が上杉方に捕縛されたため内通が露見し、7月13日に上杉景勝の陣所を尋ねた昌元は誅殺された。これにより、高坂氏嫡流は滅亡した。
 
さらに[[慶長]]5年([[1600年]])3月、初代[[川中島藩]]主として北信濃に入った森長可の弟の[[森忠政]]によって信濃に残っていた昌元の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された。(森家先代実録)という俗説もあるが、実際に[[川中島藩]]が成立したのは慶長5年9月に発生した[[関ヶ原の戦い]]の後の論功行賞であるため、この内容は信憑性にかける。
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