「アルフォンス・デーケン」の版間の差分

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ドイツの[[ニーダーザクセン州]]生まれ<ref name="yomiuri"/>。八人兄弟の三番目に生まれ、父は実業家。学校では成績優秀なため、校長に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]の指導者養成学校に推薦された。しかし、一家で反ナチス運動をしていたため推薦を断った。戦争中に[[日本二十六聖人]]の1人、ルドビコ茨木の伝記に出会い、日本での活動を願うようになった。ドイツの降伏時に、連合軍を歓迎しようとした祖父を眼前で連合軍兵士に射殺された。
 
1952年、イエズス会に入会。1959年に来日<ref name="yomiuri"/>。1965年には司祭に叙階される。長く上智大学で教鞭を取り文学部人間学研究室で「死の哲学」、「人間学」、「生と死の教育」の講座を持つ<ref>{{cite web|url=https://www.asahi.com/articles/ASN966598N96UCLV007.html |title=アルフォンス・デーケンさん死去 日本に死生学を広める|publisher=朝日新聞|date=2020-09-06|accessdate=2020-09-07}}</ref>。死生学においては、日本の代表的な学者であり、その開祖であるが、来日当初は日本における死のタブー感から、大学内でも研究の存続を危ぶむ声があったという。死生観研究の観点から、伯母が[[シカゴ]]で経営する施設を初め、多くのホスピス・老人ホームなどを視察している。厚生省(厚生労働省)のオブザーバーとして有識者会議などに参加している。来日当時「がんは早期に告知して、治療の見込みのない患者はホスピスに移す」ことを提案したが、厚生省の役人らから「日本ではガンは告知しないことになっている」と強硬に反対されたこともあるという。
1952年イエズス会に入会。1965年には司祭に叙階される。
 
1959年に来日<ref name="yomiuri"/>。長く上智大学で教鞭を取り文学部人間学研究室で「死の哲学」、「人間学」、「生と死の教育」の講座を持つ。死生学においては、日本の代表的な学者であり、その開祖であるが、来日当初は日本における死のタブー感から、大学内でも研究の存続を危ぶむ声があったという。死生観研究の観点から、伯母が[[シカゴ]]で経営する施設を初め、多くのホスピス・老人ホームなどを視察している。厚生省(厚生労働省)のオブザーバーとして有識者会議などに参加している。来日当時「がんは早期に告知して、治療の見込みのない患者はホスピスに移す」ことを提案したが、厚生省の役人らから「日本ではガンは告知しないことになっている」と強硬に反対されたこともあるという。
1982年に「生と死を考える会」を発足し、終末期医療の改善やホスピス運動の発展などに尽くした<ref name="yomiuri"/>。
2003年に上智大学を定年退職し、上智大学名誉教授の称号を得る。2003年以降はドイツへ帰国し研究生活を経てふたたび来日。以後、日本各地で講演活動を行う。ユーモアにあふれた講演は人気があり、80歳を超えた現在でも、1日2回以上の講演を受け持つことがある。書き下ろしの「ユーモア感覚のすすめ」は中学校の国語教科書に掲載されていた。2020年、肺炎で死去<ref name="yomiuri"/>。