「仙石久治 (式部)」の版間の差分

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父の久忠は本来仙石家の嫡男であったが、壮年にして失明したため後嗣から外され、京に住して関都(菊都)と名乗り[[検校]]となった。このため久治も京に住した。父の没後、叔父の上田藩主[[仙石忠政]]に招かれ、家老として迎えられた。法名は、勇健院殿広養常在禅定門。墓所は、上田市鍛冶町の本陽寺。
 
子の政治の子で仙石家家老の靭負政時は後継のいなかった藩主[[仙石政明]]の養子となり、[[仙石政房|政房]]と名乗って宗家を継ぎ、[[出石藩]]第2代藩主となった。その際、同じく子の政忠の子である久貞と藩主後継を争い、のちに久貞は藩主となった政により失脚させられている。双方の子孫の争いはその後も続き、後に[[仙石騒動]]を引き起こすことになる。
 
 
== 参考文献 ==