「堀」の版間の差分

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(運ぶための堀について追記)
== 運ぶための堀 ==
[[ファイル:Reproduced hayakawa bori.jpg|thumb|復元された早川堀]]
現在[[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]の一部となっている[[新潟島]]では、物流と人の往来のために堀が掘られた。新潟という地名からもわかるとおり、この周辺は元々低湿地であったが、[[信濃川]]や[[阿賀野川]]の治水によって開拓され、江戸時代には「[[新潟港|新潟湊]]」として、周辺で収穫される米を北海道や上方、江戸へ運ぶ[[北前船]]の[[寄港地]]として重要な物流拠点となっていた。北前船から荷物を積み換えられた小舟が港から堀を使用して市街地へと、薪や炭、野菜などの生活必需品運搬のほか、人の往来にも使用され、堀と通りが町づくりの軸になっていった。堀は縦横に張り巡らされ、縦堀はどの屋敷にも接するように配置され、横堀は信濃川からの運び込み、町からの運び出しに使われた。堀の大きさは、主に米穀類を運んだ白山堀(現在の[[白山神社 (新潟市中央区[[一番堀通町]])|白山神社]]と[[古町 (新潟市)|古町]]通りの間、一番堀)が幅14間(約25.2m)、深さ3尺(約0.9m)で最も大きく、それ以外は幅4間(約7.2m)、深さ2尺(0.6m)程度であった。横堀の両側には3間(約5.4m)の[[小路]]が付いていた。縦堀には当初小路はなかったが、後に両側に小路が付けられた。それらの小路には、[[桜]]や[[柳]]が植えられ、堀の周りには料亭が軒を連ね、橋の上ではお祭りが行われるなどして賑わい、独特の情緒ある雰囲気を作り出していた。しかし信濃川の水位が低下し、さらに[[天然ガス]]の採取による地盤沈下もあって、堀の水が淀んで悪臭が漂うようになってしまい、市民から嫌われるようになり、高度成長期も手伝って昭和39年の新潟国体の開催を前に、堀はすべて埋め立てられた。現在ではその全てが道路となり、地名や[[西堀通]]、[[東堀通]]など通りの名に堀のなごりを見ることができる。<ref>{{Cite web|title=建設コンサルタンツ協会誌VOL.237 October 2007 {{!}} 一般社団法人 建設コンサルタンツ協会|url=https://www.jcca.or.jp/kaishi/237/237_anokoro.pdf|accessdate=2020-09-08|language=ja}}</ref>
 
== 脚注 ==