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[[1980年代]]の設立当時よりPC用ゲームを開発・販売している老舗メーカーで、『[[A列車で行こうシリーズ|A列車で行こう]]』『[[Neo ATLAS]]』『[[カルネージハート]]』シリーズなどの、[[シミュレーションゲーム]]を得意とし、主力商品としている。[[1990年代]]初頭の国産PCゲーム興隆期においては国内トップシェアを誇り、[[1993年]]から[[PCエンジン]]等で家庭用ゲームソフトも提供し始める。以降、PC・家庭用を問わず様々なハードに多くのタイトルを提供し続けており、受託開発及び移植等の[[デベロッパー]]業務も積極的に行っている。
 
社名の由来は"ART"は「作品」、"DINK"は"DI"(2つの)+"NK"(NとK)で2人のN(永浜ともう一人)と2人のK(河西克重、神田英雄の元役員)の4人が会社を創設したことによる。なお、社名自体は現在も設立当時のままだが、社名ロゴデザインは一度変更されている。
永浜と河西らが[[モトローラ]]用CPUの[[アセンブラ]]などを制作していたことが会社設立のきっかけであったが、さすがにそれだけでは会社の維持は難しいであろうとゲームも手がけることとなり、『A列車で行こう』はあまりゲームなどには詳しくない河西らがかなりの努力の上で作りあげたものである<ref>{{Cite book|和書|year=1993|title=SLG解体新書|pages=148-150|author=[[多摩豊]]|publisher=[[コーエー|光栄]]|id=ISBN 487-7190228}}</ref>。
 
元々[[ゲーム会社]]を作ろうという意識はなく、永浜と河西らが趣味のために作った開発用の[[モトローラ]]用[[CPU]]の[[アセンブラ]]などを制作していたことが会社設立のきっかけであった。それらのアセンブラなどを試しに売り出した所評判を得たので、映画産業、[[防衛庁]]、[[百貨店]]等にそれぞれに勤めていた高校時代の同期4人で起業する事になった。さすがにそれだけでは会社の維持は難しいであろうとなったが、丁度その頃に立ち上がりつつあった[[コンピューターゲーム]]の市場で商売が出来そうという理由でゲームも手けることとなり、製作されたのが初代『A列車』である。『A列車で行こう』はあまりゲームなどには詳しくない河西らがかなりの努力の上で作りあげたものである<ref>{{Cite book|和書|year=1993|title=SLG解体新書|pages=148-150|author=[[多摩豊]]|publisher=[[コーエー|光栄]]|id=ISBN 487-7190228}}</ref>。
 
当初は「研究所」のイメージで運営されており、社員が全員[[白衣]]を着用していた時期があったという<ref>ビジネス・アスキー発行「A.III. THE BOOK」 ISBN 4-89366-095-0 pp.22-23</ref>。販売促進はキャンペーンや雑誌広告が主だが、『[[A列車で行こうシリーズ#A列車で行こう5|A5]]』と『[[ナビット]]』『A列車で行こうDS』ではテレビCMが放送された。PC-9801シリーズ用のゲームが主力の時代には、ユーザー登録を行った人間全てにデモディスクを送付していた。
 
創業より都内~[[千葉県]]沿岸部の[[東京湾]]周辺にオフィスを構えており、代表作である『[[A列車で行こうシリーズ]]』においては[[美浜区]]周辺の建造物がモデルとなっている事が多い。3D仕様となった作品に登場するホテル等は、[[海浜幕張]]に存在するそれに酷似しており、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『A列車で行こう5』の3Dビューで、デパートに書かれている「D」の看板は、開発当時本社を置いていた美浜区[[稲毛海岸駅]]にある[[Dマート]](現在の[[イオン (企業)|イオン]][http://www.aeon.jp/sc/marinpia-senmonkan/index.html マリンピア専門館])がモデル。近所(隣のビル)だったため、当時の社員が多く利用していた事による。
 
関連会社である[http://www.studioartdink.co.jp/index.html スタジオアートディンク]はゲーム開発やデバッグを含めたテスト等を請け負っている。また、ゲームテスター専門の企業ではなくゲーム制作企業としてのノウハウを持っている企業の中にテストチームを擁しており、(様々な制約を潜り抜けた場合になるが)スタジオアートディンク名義で他社作品の製作に参加していることがスタッフロールで分かることがある。
 
== 沿革 ==
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* はじめてのA列車で行こう
** 相鉄線で行こう([[相模鉄道]]とアートディンクとのコラボレーション)
 
== その他 ==
元々[[ゲーム会社]]を作ろうという意識はなく、趣味のために作った開発用の[[アセンブラ]]などを試しに売り出した所、評判を得たので映画産業、[[防衛庁]]、[[百貨店]]等にそれぞれ勤める高校時代の同期4人で起業する事になったという経緯を持つ。ちょうどその頃[[コンピューターゲーム]]の市場が立ち上がりつつあったため、商売になりそうという理由で製作されたのが初代『A列車』である。社名の由来は"ART"は「作品」、"DINK"は"DI"(2つの)+"NK"(NとK)で2人のN(永浜ともう一人)と2人のK(河西克重、神田英雄の元役員)の4人が会社を創設したことによる。なお、社名自体は現在も設立当時のままだが、社名ロゴデザインは一度変更されている。
 
当初は「研究所」のイメージで運営されており、社員が全員[[白衣]]を着用していた時期があったという<ref>ビジネス・アスキー発行「A.III. THE BOOK」 ISBN 4-89366-095-0 pp.22-23</ref>。
 
販売促進はキャンペーンや雑誌広告が主だが、『[[A列車で行こうシリーズ#A列車で行こう5|A5]]』と『[[ナビット]]』『A列車で行こうDS』ではテレビCMが放送された。PC-9801シリーズ用のゲームが主力の時代には、ユーザー登録を行った人間全てにデモディスクを送付していた。
 
創業より都内~[[千葉県]]沿岸部の[[東京湾]]周辺にオフィスを構えており、代表作である『[[A列車で行こうシリーズ]]』においては[[美浜区]]周辺の建造物がモデルとなっている事が多い。3D仕様となった作品に登場するホテル等は、[[海浜幕張]]に存在するそれに酷似しており、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『A列車で行こう5』の3Dビューで、デパートに書かれている「D」の看板は、開発当時本社を置いていた美浜区[[稲毛海岸駅]]にある[[Dマート]](現在の[[イオン (企業)|イオン]][http://www.aeon.jp/sc/marinpia-senmonkan/index.html マリンピア専門館])がモデル。近所(隣のビル)だったため、当時の社員が多く利用していた事による。
 
関連会社である[http://www.studioartdink.co.jp/index.html スタジオアートディンク]はゲーム開発やデバッグを含めたテスト等を請け負っている。また、ゲームテスター専門の企業ではなくゲーム制作企業としてのノウハウを持っている企業の中にテストチームを擁しており、(様々な制約を潜り抜けた場合になるが)スタジオアートディンク名義で他社作品の製作に参加していることがスタッフロールで分かることがある。
 
== 関係者 ==
* 永浜達郎:現社長。『A列車シリーズ』の生みの親であり最高責任者。