「松永久秀」の版間の差分
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そもそも、久秀は[[日蓮宗]][[本圀寺]]の塔頭・戒善院の大檀越であった<ref>[http://sho-rin-in.net/?page_id=118 天霊山松林院] 公式サイトの記述による(アクセス年月日:2014/03/24)。</ref>。
当時の畿内の日蓮宗([[法華宗]])の教義からすると、キリスト教のみならず他宗一般に対する彼の態度が否定的なものであったことは容易に推定される。そして、こうした推定を裏付ける傍証として、永禄8年([[1565年]])[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]に[[正親町天皇]]より三好義継に宛てて下されたキリスト教宣教師の洛外追放を命ずる[[女房奉書]]が、久秀自身による朝廷への要請と、彼と信仰を同じくしていた公家の[[竹内季治]]の進言に応じて発せられたものであったという事実も近年の研究で明らかとなっている<ref>[[村井早苗]](1980)[https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1170&item_no=1&page_id=13&block_id=49
久秀本人が永禄8年や9年の時点で「クリスマス休戦」なるものに関与したとの通説は、今のところ何ひとつ明確な証拠が確認されていない話であると言うことができよう。なお、久秀の甥である[[内藤如安]]や、当時配下の武将であった[[結城忠正]]・[[高山友照]]などは永禄8年ごろには既にキリシタンに改宗しており、彼らの率いる軍勢の中には多少のキリシタンが存在していた。よって、久秀がキリスト教排撃論者であったという事実は、フロイス日本史において記録されている“松永方の少数の兵による降誕祭ミサ参加”という逸話それ自体の信憑性までをも妨げるものではない。
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; テレビドラマ
: [[大河ドラマ]]
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:*[[麒麟がくる]]([[2020年]]、演:[[吉田鋼太郎]])
== 史料 ==
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