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== 背景 ==
マーガレット「ペギー」イートンは[[ホワイトハウス]]から少し離れたところにあり、政治家や軍人に人気の有名な交流の場、[[ワシントンD.C.]]の下宿屋兼居酒屋「フランクリンハウス」を経営するウィリアム・オニールの長女だった。ペギーは[[フランス語]]を学び、ピアノを上手に弾き、その時代の女性としては十分な教育を受けていた<ref name="historynet">{{Cite web|url=http://www.historynet.com/andrew-jackson-the-petticoat-affair-scandal-in-jackons-white-house.htm/4|title=Andrew Jackson: The Petticoat Affair, Scandal in Jackson's White House|work=HistoryNet.com|language=英語|accessdate=2020-08-17}}</ref>。のちに[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]を務め[[ウィリアム・テイラー・バリー]]は「しょっちゅうピアノを弾き、心地よい歌で私たちを楽しませてくれる」「魅力的な女の子」と書いている{{sfn|Marszalek|2000|p=1835}}。若い女の子ゆえに、男性がよく出入りするバーで働き、下宿屋の顧客と何気ないおしゃべりをする彼女には、厳しい視線が注がれるようになっていった。ペギーは長い年月が経過した後に、「私はまだ{{仮リンク|パンタレッツ|en|Pantalettes}}を履き、他の女の子と一緒に[[輪回し]]をしていましたが、年齢問わず男性の注目の的となりました。少女をうぬぼれさせるのに十分でした。」と回想している<ref name="One Woman">{{cite journal | jstor=3124447| title=One Woman so Dangerous to Public Morals | author=Wood, Kristen E. | journal=Journal of the Early Republic | date=March 1, 1997 |volume=17 | issue=2 | pages=237–275 | doi=10.2307/3124447}}</ref>。
 
ペギーが15歳のとき、彼女の父親は[[アメリカ陸軍|陸軍]]将校との駆け落ちを阻止した<ref>{{cite book |last=Watson |first=Robert P. |date=2012 |title=Affairs of State: The Untold History of Presidential Love, Sex, and Scandal, 1789-1900 |url=https://books.google.com/books?id=A6LRVg0kn28C&pg=PA192 |location=Lanham, MD |publisher=Rowman & Littlefield |page=192 |isbn=978-1-4422-1834-5}}</ref>。17歳になる1816年に、[[アメリカ海軍|海軍]]将校の{{仮リンク|ジョン・B・ティンバーレイク|en|John B. Timberlake}} (1777–1828)と結婚した<ref name="The Long">{{cite journal | title=The Long Agony Is Nearly Over | author=Jr, Royce McCrary and S. D. Ingham | journal=Historical Society of Pennsylvania | date=April 1, 1976}}</ref>。39歳のティンバーレイクは大酒飲みで、借金が山ほどあることで有名だった<ref name="The Long" />。ティンバーレイク夫妻は1818年に[[ジョン・ヘンリー・イートン]]と知り合いになった<ref>{{cite book |last=Gerson |first=Noel Bertram |date=1974 |title=That Eaton Woman: In Defense of Peggy O'Neale Eaton |url=https://books.google.com/books?id=K3crAQAAIAAJ&q=%22john+eaton%22+%22friendly%22+%22timberlake%22&dq=%22john+eaton%22+%22friendly%22+%22timberlake%22 |location=Barre, MA |publisher=Barre Publishing |page=25}}</ref>。当時、イートンは28歳の裕福な男やもめであり、[[アメリカ合衆国憲法|合衆国憲法]]で規定されている最低年齢の30歳にまだ達していないにもかかわらず、[[テネシー州]]から新たに選出された[[アメリカ合衆国上院|連邦上院]]議員だった<ref>{{cite book |last=Baker |first=Richard A. |date=2006 |title=200 Notable Days: Senate Stories, 1787 to 2002 |url=https://archive.org/details/200notabledaysse0000bake |url-access=registration |location=Washington, DC |publisher=US Government Printing Office |page=[https://archive.org/details/200notabledaysse0000bake/page/41 41] |isbn=978-0-16-076331-1}}</ref>。彼はまた、[[アンドリュー・ジャクソン]]の長年の友人でもあった<ref>{{cite book |last=Belohlavek |first=John M. |date=2016 |title=Andrew Jackson: Principle and Prejudice |url=https://books.google.com/books?id=QKJTDAAAQBAJ&pg=PA65 |location=New York, NY |publisher=Routledge |page=65 |isbn=978-0-415-84485-7}}</ref>。
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== 解決 ==
ヴァン・ビューレンが辞職を申し出て、イートンにも同様に辞職するように提案した。ジャクソンは反イートン派の他の閣僚にもこれに追随するよう求め、内閣を再編成することになった<ref name="historynet" />。[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]][[ウィリアム・テイラー・バリー]]はイートン夫妻に味方していたため、残留した唯一の閣僚となった<ref>{{cite book |last=Watson |first=Harry L. |date=2006 |title=Liberty and Power: The Politics of Jacksonian America |url=https://books.google.com/books?id=SL3ZDX7ykqUC&pg=PA125&dq=%22petticoat%22+%22william+t.+barry%22&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiV64-z_53KAhXHjz4KHQgoDwwQ6AEITTAF#v=onepage&q=%22petticoat%22%20%22william%20t.%20barry%22&f=false |location=New York, NY |publisher=Hill & Wang |page=125 |isbn=978-0-8090-6547-9}}</ref>。イートン夫妻はこの後にワシントンを離れることになった。イートンは[[フロリダ州知事|フロリダ準州知事]]、次いで{{仮リンク|在スペインアメリカ合衆国大使の一覧|en|List of ambassadors of the United States to Spain|label=駐スペイン公使}}を務めた<ref name="historynet" />。
 
イートンが正式に辞職する前日の6月17日に『ユナイテッド・ステイツ・テレグラフ』紙はインガム、ブランチ、[[ジョン・バーリン|ジョン・M・バーリン]]([[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]])の家族がイートン氏との付き合いを拒否したことが「証明された」という記事を掲載した。イートンは3人の男性全員に記事について回答するように催促する手紙を書いた{{sfn|Snelling|1831|p=199}}。インガムは情報源ではないが、記事のとおりだと述べて軽蔑的な手紙を送り返した{{sfn|Snelling|1831|pp=199-200}}。6月18日にイートンは義理の兄弟のフィリップ・G・ランドルフを通じて、インガムに[[決闘]]を申し込んだ。ランドルフはインガムを2度訪問し、2度目の訪問時には、もし決闘に応じなかった場合は危害を加えると脅迫した。ランドルフは退去させられ、インガムはその翌朝に不快げに招待を辞退するメモを送り{{sfn|Snelling|1831|p=200}}、状況を「哀れみと軽蔑」の一つとして説明した。イートンはインガムを臆病だと非難する手紙を書いて返送した{{sfn|Parton|1860|p=366}}。インガムはその後、イートンやランドルフらが自分を襲撃しようとしていることを知らされた。彼は[[ボディーガード]]を集め、すぐには危害を加えられなかった。しかし、その次の二晩でイートンとその部下たちはインガムの家に潜伏を続け、脅迫してきたという。インガムはひとまず街を出て、その後に無事に家に戻った{{sfn|Snelling|1831|p=200}}。インガムは起きたことをジャクソンに伝え、ジャクソンはイートンにこの訴えについて回答するように求めた。イートンはインガムが滞在していた場所を「通り過ぎた」ことは認めたものの、「しかし、侵入しようとしなかったし(中略)、包囲することもなかった。」と話した{{sfn|Remini|1981|p=320}}。