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誠実で表面を飾らないところがあったことから、若いころは目立たなかった。父の死後、その後を継いだ。[[馮翊|馮翊郡]]の[[李豊 (曹魏)|李豊]]とは幼い頃からの知り合いであったが、李豊が名声高く世評を集めるようになると、杜恕の慎ましさを引き合いに出し李豊を批判する人が出たことから、李豊とは不仲になった(『杜氏新書』)。
李豊が仕官した後もしばらく世に出なかったが(『杜氏新書』)、[[曹叡]](明帝)の時代である[[太和 (魏)|太和]]年間に散騎黄門侍郎<ref>『杜氏新書』によると、大臣の子であったため曹叡から散騎常侍に採り立てられ、数ヵ月後に黄門侍郎に転じたとある。</ref>となった。仕官してからは個人的な仲間作りに励むこともなく、政道が乱れるといつも正論を並び立て批判をしたため、[[
[[刺史]]が軍権を持つことに反対していたため、鎮北将軍の呂昭が[[冀州]]刺史を兼任しようとした時は反対した。
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