「ルイス・デ・アルメイダ」の版間の差分

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日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは[[1558年]]には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。同年には横瀬浦から避難し後に『[[フロイス日本史|日本史]]』を書いた[[ルイス・フロイス]]も度島で10か月ほど滞在した。[[宇久純定]]の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた<ref>『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年([[1969年]])[[2月10日]]発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 84頁-98頁</ref>。
 
156915669月、トルレスに派遣され、天草の豪族・志岐麟泉の招きで初めて志岐(天草郡苓北町を訪れた。<ref>松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』9巻、第17章(第1部72章)、中央公論社、1979年。274頁。1567年10月13日付、志岐発信、アイレス・サンシェス修道士書簡、CI.f.247v.</ref>アルメイダは天草に初めて布教を開始し、南蛮文化を伝えた。天草市の殉教公園には彼の像が建てられている。天草に移住してからは、カステラ風のお菓子を教えるなど食文化にも精通しており、玉名市の銘菓「[[松の雪]]」は、アルメイダが、貿易港[[伊倉町|伊倉]]の菓子職人に製法を伝えたとされる。
 
[[1580年]]、アルメイダはマカオにわたって[[司祭]]に[[叙階]]された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、[[1583年]]10月に[[天草諸島|天草]]の河内浦([[熊本県]][[天草市]])で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。