「長谷川正安」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
4行目:
1923年[[茨城県]][[土浦市]]で、4人兄弟の末っ子として生まれる。[[関東大震災]]後に[[品川区]][[武蔵小山]]の[[長屋]]に家族で移住。1943年徴兵。1945年乗船中の[[輸送船]]が[[機雷]]により大破、[[舞鶴]]のドックで終戦を迎える。この戦争体験から日本軍に反感を持ち、軍隊、組織嫌いとなり、企業就職を拒否し、研究者の道を歩むことを決意するようになる。
 
1946年(昭和21年)[[東京商科大学]](現[[一橋大学]])卒業後、1949年同窓の[[酒井正兵衛]][[学部長]]の下、26歳で新設の[[名古屋大学]]法経学部助教授に就任。1956年に[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|名古屋大学法学部]]教授に就任すると独自の法理論の、特に主権論で[[日本国憲法第9条]]の問題に対して独自の理論を展開している。「真の意味での独立主権国家でしか[[自衛力]]は保持はできない」とする自説をもち、戦後憲法学の一翼を担った。議会解散権についても「衆議院は国民に信を問うため『自覚的解散権』を持つ」とするなど、国民主権論についても独自の理論を持っている。
 
[[日本共産党]]系の憲法研究者として、政治運動にも積極的で、[[世界科学者連盟]]副会長(1990年 - 2000年)、[[原水爆禁止日本協議会]]理事長、[[憲法改悪阻止各界連絡会議]]代表委員、愛知憲法会議代表委員、[[日本科学者会議]]代表幹事等を歴任。愛知憲法会議は[[坂田昌一]]、[[真下信一]]、[[新村猛]]らとともに設立した<ref>2009年08月14日 朝日新聞</ref>。
10行目:
1996年に妻が死去した後は、[[覚王山駅|覚王山]]のマンションで一人暮らしをしていたが、2009年8月13日名古屋市内の病院で死去、享年86。
 
弟子に名古屋大理事・副総長を務めた[[森英樹 (法学者)|森英樹]]、[[立命館大学]]教授の[[大久保史郎]]、[[岐阜大学]]地域科学[[学部長|部長]]の[[竹森正孝]]、[[國學院大學]]教授の[[植村勝慶]]、[[札幌学院大学]]教授の[[伊藤雅康]]などがいる。
 
憲法学者の[[長谷川憲]]([[工学院大学]]教授、元憲法理論研究会運営委員長)は長男で、名古屋大大学院で指導を受けた弟子でもある<ref>2009年08月14日 中日新聞</ref>。