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{{Location map
|France Paris
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|caption=パリ内の位置
}}
[[Image:Edouard Manet 052.jpg|thumb|210px|right|[[エドゥアール・マネ]]
'''パリロンシャン競馬場'''
競馬場の正門にはフランス競馬史上最高の国民的英雄と評された史上2頭目の[[イギリスクラシック三冠]]馬[[グラディアトゥール]]
== 歴史 ==
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*[[1962年]] - スタンドの増改修が始められる。
*[[1966年]] - 新スタンド完成<ref name="Thibault2004-p205">[[#チボー2004|チボー2004]]、p205</ref>。
*[[2015年]] - 同年の凱旋門賞開催後から、スタンド改築・馬場の[[オールウェザー (競馬)|オールウェザー]]化などの大規模改修工事を開始する<ref>[http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2014/05/02/kiji/K20140502008079230.html
*[[2018年]] - 4月8日にリニューアルオープンに伴い、場名が'''パリロンシャン競馬場'''に改名された。
=== 競馬場建設以前のロンシャン ===
ロンシャン平原と呼ばれる、後に競馬場が建てられることとなるセーヌ川沿いの細長い草原には、ロンシャン王立[[修道院]]
[[アンシャン・レジーム]]のころになると修道院で[[受難週|聖週間]]に催される[[ミサ]]が[[上流階級]]の間で好評を博し、着飾った上流階級の人々が高級馬車に乗り富を見せびらかして[[シャンゼリゼ通り]]から[[ブローニュの森]]のロンシャンまで進む、''"ロンシャンの散策 "'' と呼ばれる[[パレード]]が始まる。やがて、天気のよい日に行われる習慣となった。[[フランス革命]]が起こると修道院は破壊され、習慣も一時的に失われたが、[[フランス復古王政]]の時代になるとともに再びパレードを行うようになる。習慣は戻ったが修道院の再建は行われなかった<ref>[[#鹿島2004|鹿島2004]]、p284</ref>。現在でも残っている赤い風車がその名残である{{#tag:ref|[[アベイ・ド・ロンシャン賞]]と[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]の名はこのことから名付けられた。| group="†"}}。
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<gallery mode="packed" caption="" heights="160">
File:Edouard Manet 053.jpg|''ロンシャン競馬場 Les Courses à Longchamp''
File:Edgar Germain Hilaire Degas 059.jpg|''ロンシャンの競走馬 Chevaux de course à Longchamp''
File:Ladies at Longchamp 1908.jpg|ロンシャンの[[淑女]]たち
File:Sessue Hayakawa 1923.jpg|ロンシャンでの[[早川雪洲]](1886
File:2012 Hippodrome de Longchamp Moulin.JPG|ロンシャン競馬場の[[風車]]
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=== 競馬場の創設 ===
ロンシャン競馬場を建設し、その後の管理を行ったのはフランス馬種改良奨励協会
''シャン・ド・マルスから移転した理由などの詳細は「[[パリ大賞典#ロンシャン競馬場の創設]]」を参照''
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[[1856年]]6月には1856年7月1日から[[1906年]]6月30日までの[[リース]][[契約]]を結んだ<ref name="galo_LC">[[#フランスギャロ|フランスギャロ]]、競馬場の歴史(ロンシャン)</ref>{{#tag:ref|なお、現在でも土地所有者はパリ市のまま契約の延長を行っている<ref name="jairs2012-30-2">[[#JAIRS2012-30-2|JAIRS、改修計画が前進]]</ref>。| group="†"}}。さらに、1856年12月16日には、これまで国営である帝国牧場が監督していたシャン・ド・マルスの秋開催を委譲し、春開催と同じく奨励協会が一括して管理しロンシャン競馬場で行う協約を結ぶ。この2点は12月17日付の勅令で承認された<ref name="fitz1995_14">[[#フィッツジェラルド1995|フィッツジェラルド1995]]、p14</ref>。
こうした交渉の上、2年余りをかけ建設された競馬場における最初の競走は、1857年4月27日の日曜日に大勢の群集の前で開催されている。そこには[[ナポレオン3世]]皇帝とその妻[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]皇后が親臨し{{#tag:ref|皇帝夫妻は公務のため[[テュイルリー宮殿]]を離れられなかった<ref name="fitz1995_14"/>が、第3競走を見るためにプライベートヨットで乗り付けた<ref name="galo_LC"/>。なお、当日は全部で5競走だった<ref>[[#大串2011|大串2011]]、p227</ref>。| group="†"}}、[[ジェローム・ボナパルト]]とその息子[[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト|ナポレオン公]]、[[ニコラウス・ヴィルヘルム・フォン・ナッサウ|ナッサウ公子]]、{{仮リンク|ルシアン・シャルル・ジョゼフ・ナポレオン・ミュラ|en|Prince Napoleon Lucien Charles Murat|label=ミュラ公}}といった面々がロイヤル・エンクロージャーに顔をそろえた{{#tag:ref|[[#フランスギャロ|フランスギャロ]]の公式サイトや[[#フィッツジェラルド1995|『凱旋門賞の歴史』第1巻]]の14頁ではモルニーの名もあるが、[[#大串2011|『華麗なるフランス競馬』]]の228頁においてはロシアから「まだ戻っていなかった
=== 競馬場の施設変遷 ===
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2015年から2018年までの大規模リニューアル工事(スタンド改修・馬場改修)にて直線入口の内ラチ側にコース幅が6m分の進路が広がる'''オープンストレッチ'''が設置された。これによって道中内ラチ沿いを走る馬が馬群に包み込まれたまま直線の攻防に加われず力を出し切れずレースを終えるといった弊害が少なくなると期待されている{{#tag:ref|ただし、全てのレースにおいて使用されるわけではなく、例えば2018年の凱旋門賞当日のようにオープンストレッチを撤去し改装前の状態でレースが行われるケースもある。| group="†"}}。
=== 距離設定 ===
直線の1000mコースから4000mまで46箇所の発走地点がある
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== おもな競走 ==
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[[Image:Hippodrome de Longchamp.jpg|thumb|ゴール板]]
=== 廃止されたおもな競走 ===
*[[リュパン賞]]
*[[サラマンドル賞]]
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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|author = [[鹿島茂]]
|year = 2004
|title = 怪帝ナポレオンIII世
|publisher = [[講談社]]
|isbn = 978-4062125901
|ref = 鹿島2004
}}
*
|author = 松井道昭
|year = 1997
141 ⟶ 142行目:
|ref = 松井1997
}}
*
|author = 大串久美子
|year = 2011
149 ⟶ 150行目:
|ref = 大串2011
}}
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|author = ギイ・チボー
|translator = 真田昌彦
158 ⟶ 159行目:
|ref = チボー2004
}}
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|author = アーサー・フィッツジェラルド
|coauthors = マイケル・セス・スミス
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== 外部リンク ==
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*[http://www.france-galop.com/fr/hippodromelongchamp パリロンシャン競馬場](フランス語)
{{DEFAULTSORT:はりろんしやんけいはしよう}}
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