「日本の宇宙開発」の版間の差分

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近代的な日本のロケット開発は戦前の1931年にさかのぼることができ、兵器開発の一環として外国からの十分ではない資料を元に、陸海軍の噴進砲や[[桜花 (航空機)|桜花]]などの[[固体燃料ロケット]]や、[[イ号一型甲無線誘導弾|イ号ミサイル]]や[[秋水]]などの[[液体燃料ロケット]]の開発などが行われた。戦後ロケット開発に協力することになる[[村田勉]]などもこれらの研究に携わっていたが、これらは終戦後に一度断絶する<ref>{{Cite web|url=http://www.isas.jaxa.jp/ISASnews/No.239/ken-kyu.html|title=戦前の日本のロケット研究|publisher=[[宇宙科学研究所]]|author=[[的川泰宣]]|work=ISASニュース|date=2001-02|accessdate=2015-06-20}}</ref>。
 
宇宙開発としての黎明は[[東京大学]]教授であった[[糸川英夫]]によるものであった。[[第二次世界大戦]]後、日本は[[航空機]]の技術開発を禁じられ、第二次大戦中の航空技術者たちは多くが職を失っていたが、[[サンフランシスコ平和条約]]締結後、再度航空技術の開発が出来るようになった。7年間の断絶の間に日本の航空宇宙技術は大きく損なわれていた<ref name="H-II">{{Cite book|和書|title=国産ロケット「H-II」宇宙への挑戦|author=[[五代富文]]|publisher=徳間書店|date=1994-04-30|isbn = 4-19-860100-3}}</ref>。糸川は[[東京大学生産技術研究所]]に航空技術の研究班を設置し、[[1955年]]4月には[[国分寺市]]で長さ23cm、直径1.8cmの[[ペンシルロケット]]の水平発射実験をおこなった<ref>{{cite web|url=http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/mame/006719.html|title=国分寺市からロケット発射|publisher=国分寺市|accessdate=2011-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110120084659/http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/mame/006719.html|archivedate=2011年1月20日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。これが戦後日本の最初のロケット実験とされている。<!--このロケットは当初はロケット航空機の開発と関連したものであり、--><!--糸川の「ロケット航空機」構想については、実際にやろうとしていたことと、全国紙等による報道とにギャップがあるため、概史で触れるのは適切ではない-->続いて大きな目標として、来たる1957年〜1958年の[[国際地球観測年]]会議をきっかけ実施が計画された、上層大気の(ロケット地球よる)観測のための機器を、外国から好意的な申し出もあったもののそれ頼ることなく糸川らのロケット打ち上げるべく、研究・開発が進められることった<ref>{{cite web |url=http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/01/04.shtml |title=ある新聞記事 |publisher = ISAS |accessdate=2011-01-30}}</ref>。<!--1953年に糸川が予定を切り上げ米国から帰国する時から有人[[宇宙開発]]は念頭にあった。--><!--要出典-->
 
=== 初期 ===