「囲碁の歴史」の版間の差分

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[[ファイル:Go Board Han dynasty.JPG|石製碁盤 望都漢墓 中国[[後漢]]|thumb|right|200px]]
 
この期間、囲碁は[[サイコロ]]を使ったゲームの「[[六博]]」とともに「博弈」と称され、上層階級に広まった。ただし、前漢では運次第の「六博」の方が知力を競う囲碁よりも流行していた。後漢時代に至ってようやくこの状況は改善され、囲碁は兵法に類似しているとして、段々と重視されるようになってきた。[[班固]]の『弈旨』は世界初の囲碁の専門書とみなされる。[[馬融]]は『圍棋賦』のなかで最初に「三尺之局兮,為戦鬥場」との思想を表明した。[[曹操]]や[[孫策]]や[[王粲]]などの当時の著名人はみな囲碁をたしなんだ。[[関羽]]が矢傷を負った際、碁を打ちながら手術を受けたというエピソードはよく知られる。
 
[[河北省]][[望都県]]の後漢の墓から出土した棋具と[[魏 (三国)|魏]]の[[邯鄲淳]]の『芸経』<ref>『[[文選]]』巻52、[[韋昭]]「博弈論」の[[李善 (唐)|李善]]注が引用している</ref>の記載から、この時代の碁盤は17路だったと考えられる。碁石については、[[安徽省]][[亳州市]]の元宝坑一号墓から後漢末の四角い碁石が出土しているという<ref>{{cite book|和書|author=中野謙二|title=囲碁 中国四千年の知恵|publisher=[[創土社]]|year=2002|page=111}}</ref><ref>{{citation|和書|url=http://www.iemg2016huaian.com/jingsaizuzhi/20160120/7.html|title=中華奇葩|publisher={{zh|2016国际智力运动联盟智力运动精英赛}}}}</ref>。[[山東省]][[鄒城市]]の劉宝墓から出土した[[西晋]]の碁石は卵型である<ref name="west">{{citation|url=http://babelstone.blogspot.com/2009/04/pictorial-history-of-game-of-go.html|author=Andrew West|title=A Pictorial History of the Game of Go|publisher=BabelStone|date=2009-04-15}}</ref>。
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=== 江戸の黄金期 ===
[[江戸時代]]には算砂の[[本因坊|本因坊家]]と[[井上家]]、[[安井家]]、[[林家 (囲碁)|林家]]の四家が碁の家元と呼ばれるようになり、優秀な棋士を育て、互いに切磋琢磨しあうこととなった。四家はそれぞれ幕府から扶持を受けており、それぞれの宗家は血筋ではなく、実力により決められる事となった(血筋も影響したようではある)。その技術の発揮の場が年に一回[[江戸城]]内、将軍御前にて行われる[[御城碁]]である。この勝負御城碁は四家それぞれ数人の代表を数人選んで対局さによって戦わたが、負けることは家の大きな不名誉であとなり、弟子の集まり方にも影響があった。
 
また囲碁界の統括者である名人碁所の地位は、各家元いずれかの宗家であり、棋力が他を圧倒し、かつ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされた。[[本因坊道策]]のように例外的に何の反対も無く名人となった者もいるが名人の地位は他の棋士に対して段位を発行する権限を保有するなど数々の特権と大きな名誉を有しておりいるため多くの場合は名人の地位をめぐる各家元によるいとなっ奪戦が何度も演じられた。争いの解決は対局で行われ、その対局を争碁(そうご、あらそいご)と呼ぶ。
 
史上初の争碁は二世[[本因坊算悦]]と安井家二世の[[安井算知|算知]]との間で争われた。[[御城碁]]における手合割を不服としたもので、9年がかりで6戦して3勝3敗の打ち分けのまま、算悦の死によって終わりを告げた。
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算知は算悦の死後10年目に名人碁所の座に就くが、算悦の弟子で三世本因坊となっていた[[本因坊道悦|道悦]]がこれに異を唱え、再び争碁が開始された。幕府の意にあえて逆らった道悦は、遠島あるいは死をも覚悟しての争碁であった。両者20戦して道悦の12勝4敗4[[ジゴ]]となったところで対戦は打ち切られ、名人算知は引退を表明した。また道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、弟子道策に後を譲って隠居した。道策の技量はこのときすでに道悦を上回っていたとされ、争碁後半で道悦が大きく勝ち越したのには道策との共同研究によるところが大きかったといわれる。
 
四世本因坊道策は当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(2段差のハンディキャップ)以下にまで打ち込み、実力十三段と称揚された。もちろん名人の地位にも文句なしに就位している。始祖算砂、[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]道策と言う二人の不世出の棋士により、本因坊家は名実共に四家の筆頭となった。
 
時の最強者本因坊道策の下には天下の才能が集まったが、厳しい修行が仇となったのか次々と夭折した。このうち[[本因坊道的]]は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。晩年、道策は道的に劣らぬ才能[[本因坊道知]]を見出し、これを後継者とした。道知もまた後に名人碁所となる。
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丈和隠退後、幻庵因碩は名人位を望むが、これに抵抗したのが本因坊一門の若き天才児[[本因坊秀和]]であった。秀和は本場所というべき御城碁で幻庵を撃破し、その野望を阻んだ。秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は[[幕末]]の動乱期に突入しており、[[江戸幕府]]はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。
 
[[本因坊秀和]]の弟子である[[本因坊秀策]]は若い頃より才能を発揮して、御城碁に19戦19勝と言う大記録を作ったが、[[コレラ]]により34歳で夭折した。秀和と秀策と秀策の弟弟子である村瀬秀甫(後の[[本因坊秀甫]])の三人を合わせて三秀と呼び、江戸時代の囲碁の精華とされる。
 
江戸時代には武士だけではなく、各地の商人・豪農が棋士を招聘して打ってもらうことがくあり、[[落語]]の「笠碁」や「碁打盗人』で有名どで描かれたように、市井でも盛んに打たれていた。一方で地方によっては[[双六]]などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった。
 
=== 日本棋院誕生 ===
しかし[[明治維新]]により[[江戸幕府]]が崩壊すると、パトロンを失った家元制度もまた崩壊した。本因坊宗家の秀和は生活に苦しみ、一時は倉庫暮らしとなったほどである。更に西洋文明への傾斜、伝統文明の軽視と言う風潮から囲碁自体も軽く見られるようになった。
 
その中で囲碁の火を絶やすまいと[[1879年]]に[[本因坊秀甫|村瀬秀甫]]は囲碁結社「[[方円社]]」を設立(方は碁盤、円は碁石のことで囲碁の別名である)。新たに級位制度を採用するなど、底辺の開拓を試みた。それに対抗して秀和の息子である土屋秀栄(後の[[本因坊秀栄]])は[[1892年]]に「囲碁奨励会」を設立した。こうして坊社対立時代が続くが、[[1886年]]に秀栄は秀甫に本因坊の座を譲って和解した。しかしその1ヶ月後に秀甫は死去、秀栄が本因坊に復帰する。
 
こうした対局の熱気を受けて[[新聞]]にも囲碁欄が登場するようになり、一般の囲碁界に対する興味が高まってきた。1878年4月1日、「郵便報知新聞」は1878年4月1日、[[中川亀三郎]]6段と[[高橋三郎]]5段の碁譜を掲載し、これが新聞の囲碁欄の始まりとされる
 
一旦は秀栄が本因坊家を相続、名人位就位復帰た秀栄は、並み居る棋士をなぎ倒して囲碁界を統一し、[[1906年]]に名人位に就く。しかし秀栄の死後は団体が乱立し、囲碁界は混乱の極みとなる。秀栄は後継者を決めないままに死去し、田村保寿(後の[[本因坊秀哉]])と[[雁金準一]]が後継の座を争い、囲碁界は混沌とした時期を送った。結局秀栄の弟[[本因坊秀元]]がいったん二十世本因坊を襲名し、一年後に秀哉に本因坊位を譲ることでこの難局を収拾した。
 
この状況の中で[[関東大震災]]が起き、囲碁界も大ダメージを受けた。この苦境を乗り切るためには分裂は好ましくないという機運が生まれ、[[帝国ホテル]]創業者として有名な[[大倉喜七郎]]の呼びかけにより、[[1923年]]に東西の棋士が集まって[[日本棋院]]が設立された。
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本因坊秀哉名人は死期が近づいてくると[[本因坊]]の世襲制を取りやめることを宣言し、本因坊の名跡を日本棋院に譲り渡した。[[1936年]]、日本棋院は本因坊の座を争う棋戦を開催することを決定した。これが本因坊戦であり、囲碁のタイトル戦の始まりでもある。秀哉名人は引退するに当たり[[木谷実]]と数ヶ月に及ぶ引退碁を打ち(木谷先番5目勝)、終了後まもなく死去した。
 
秀哉名人に代わって第一人者の地位を勝ち取ったのが、中国から来た天才棋士・[[呉清源]]である。呉清源は[[1933年]]、[[木谷実]]と共にそれまでの布石の概念を覆す「[[新布石]]」を発表し、本因坊戦の開催と前後してする。1933年には秀哉名人と対局を行い、その冒頭「[[星 (囲碁)|星]]・[[三々]]・[[天元 (着点)|天元]]」という極めて斬新な布石を披露し、世間をあっと驚かせた。この新布石は囲碁界のみならず一般社会をも巻き込んで囲碁のブームを巻き起こした。
 
=== 戦後の囲碁 ===
[[1941年]]には実力制による本因坊戦が開始され、[[関山利一]](利仙と号す)が第一期本因坊の座に就いた。しかし[[太平洋戦争]]が勃発すると棋士たちは地方に疎開せざるを得なくなり、各地でどさ周りをするようになった。日本棋院の建物も空襲で全焼しており、棋士・[[岩本薫]]の自宅に一時事務所を移転した。
 
その中でも本因坊戦は続けられていた。[[1945年]][[8月6日]]の第三期本因坊戦([[橋本宇太郎]]対[[岩本薫]])の第2局は[[広島市]]郊外で行われたため、対局中に[[原子爆弾]]の投下が行われ、爆風を浴びた。両対局場に爆風が及び吹き飛ばされ、碁石飛び散ったが、対局は最後まで行われた。この対局は「[[原爆下の対局]]」と呼ばして知られる。
 
戦後しばらく日本棋院は都内各所の料亭などに場所を借りて対局を行っていたが、自前の対局所を持つべきだという声が強まり、[[1947年]]港区高輪に棋院会館が開設された。
 
呉清源は戦前より、木谷實・[[藤沢朋斎]]・[[坂田栄男]]ら当時の一流棋士たち相手に十番碁(十回対局をして優劣を決める)を何度も行い、その全てに勝利した。[[1950年]]には名人の別名である九段位(現在はそういった意味は無い)に推挙され、「昭和の棋聖」と呼ばれた。
 
[[1950年]]には不満を持った関西の棋士たちが当時の本因坊・橋本昭宇([[橋本宇太郎]])に率いられて日本棋院を離脱し、新たに[[関西棋院]]を設立した。1951年、その橋本から[[高川格]]が本因坊を奪取、以後9連覇という偉業を成し遂げた。また[[1953年]]には[[王座 (囲碁)|王座]]戦、[[1956年]]には[[十段 (囲碁)|十段]]戦、[[1962年]]には[[名人 (囲碁)|名人]]戦が新たなタイトルとして設立され、新聞碁でもタイトル戦が中心となる。またこの動きに合わせて、[[コミ]]ありの碁が定着してゆく。
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[[1988年]]に日中韓の棋士たちが集まる世界大会[[世界囲碁選手権富士通杯]]が創設され、世界大会が次々と創設されるようになった。その国際戦を[[チョ薫鉉|曺薫鉉]]・[[李昌鎬]]らの韓国棋士が勝利するようになると人気が爆発し、韓国内のそこここで囲碁教室が開かれるようになり、頭の良い子供たちは収入の良いプロ囲碁棋士になれと親から言われるようになった。特に李昌鎬の活躍は目覚ましく、16歳で世界大会初優勝を果たした後、世界の第一人者と呼ばれるようになった。
 
21世紀初頭に至り、韓国勢は世界の囲碁界を制した。李昌鎬と[[李世ドル]](ドルの字は石の下に乙。[[韓国における漢字#国字|韓国の国字]])の二人が相争いながら世界タイトル戦線を席巻し、それに[[チョ薫鉉|曺薫鉉]]・[[劉昌赫]]の二人を加えた四人が世界の四強と言われた(全て韓国)。それを追いかける[[朴永訓]]ら新鋭の層も極めて厚く、その覇権は盤石と思われた。しかし2005年ころから国家レベルで若手棋士の育成に励む中国が急ピッチでこれを追い上げ、[[常昊]]・[[古力]]ら若い棋士が世界のトップを争うようになっている。中国では[[周睿羊]]、[[陳耀燁]]、[[王檄]]ら、韓国では[[崔哲瀚]]、[[朴永訓]]、[[姜東潤]]ら10代から20代の若手がトップ戦線を走り、[[周俊勲]]ら[[台湾]]勢も台頭し始めた。
 
== 人工知能の出現 ==
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== 世界への広がり ==
事前置石のい自由布石は四百年前16世紀の日本に端を発するもので、それ以前に伝播した国においては事前置石のルールが受け継がれていた。中国・韓国では、20世紀になって日本碁界との接触を機に自由布石が普及し始めた。中韓以外では、近代普及以前に囲碁が伝わった地域としてチベットがあり、1959年に[[シッキム王国]]の皇子が来日した際、17路式の囲碁([[密芒]])用具を持参して日本のプロと打ったという記録がある。
 
欧米にルールが正しく紹介されたのは、技師として来日し[[本因坊秀甫|村瀬秀甫]]に碁を学んだドイツ人、{{仮リンク|オスカー・コルシェルト|en|Oskar Korschelt}}が帰国して1860年に東洋研究の学術誌に発表した記事が最初である。コルシェルトは1880年に欧州言語(ドイツ語)で初となる本格的な囲碁の本を出版した。1908年にはこの本を元に英語で最初の囲碁の本がアーサー・スミスという人物によって書かれた。またやはりコルシェルトの記事を読んだチェスプレイヤー、[[エドワード・ラスカー]]も来日を目指したが第1次世界大戦の混乱もあって果たせず、米国にわたって1934年には英語で2番目となる囲碁の本を執筆、翌1935年には[[アメリカ囲碁協会]]が設立された。1937年にはドイツにも囲碁協会が設立された。また東アジアから諸外国への移民も囲碁の広がりに貢献した。
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江戸時代、明治時代には持ち時間という考え方がなく、対局時間は無制限であった。ただし全ての碁が極めて長かったというわけではなく、1日で2局打ち上げた記録も残るなど早打ちの棋士も多かったらしい。大正期以降、新聞碁が主流になってくると掲載時期の関係から無制限というわけにはいかなくなり、[[1926年]]の院社対抗戦、本因坊秀哉名人対雁金準一七段戦で初めて持ち時間が導入された。この時の持ち時間は両者16時間ずつという極めて長いもので、これは秀哉が極端な長考派であったことが影響しているとされる。またこの時は秒読みというものがなく、考慮中の雁金に突然時間切れ負けが宣告されるという幕切れを迎えた。秀哉名人引退碁では両者に持ち時間40時間が与えられ、初めて[[封じ手]]も導入された。
 
タイトル戦初期の頃には持ち時間も各10~13時間、三日制であったが、これは徐々に短縮されていった。現在は一般棋戦では持ち時間5時間、棋聖・名人・本因坊の三大タイトルの七番勝負のみ二日制、各8時間持ちとなっている。しかし韓国・中国では各3時間持ちというのが一般的であり、国際棋戦もこれに合わせて行われるものが多く、日本人棋士が国際戦で振るわない原因の一つに挙げられている。持ち時間の長い国内棋戦に対し、3時間が主流の国際棋戦では布石に持ち時間を使うよりも研究で突き詰める方が効率がよく、日本の棋士が布石の研究で遅れた部分もある。このため日本国内のタイトル戦も国際戦に合わせるべきという声が高まり、[[王座 (囲碁)|王座戦]]などを皮切りに多くの棋戦で3時間制が導入されるようになっている。
 
「早碁」も当初は持ち時間が4時間というものであったが、近年テレビ放送に合わせて1手30秒、持ち時間10分というシステムが一般化した。