「賈充」の版間の差分

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=== 西晋建国の功臣に ===
司馬昭の死後、その子の[[司馬炎]]に仕え、その禅譲に協力した。司馬炎(武帝)が即位すると、[[羊コ|羊祜]]・[[荀勗]]・[[裴秀]]・[[王沈 (西晋)|王沈]]らと共に佐命の勲(晋朝成立の功臣)として功賞され、賈充の功績も筆頭に挙げられた。[[陳騫]]と共に特別な香を付与された事もあったという。
 
晋の時代になると[[司空]]・[[尚書令]]等を歴任し、『[[泰始律令]]』編纂の中心人物になった<ref>司馬炎の詔によると、他に編纂にあたった中心人物は[[鄭沖]]・[[荀顗]]・荀勗・羊祜・[[王業]]、杜友・杜預・裴楷・周雄・郭頎・成公綏・荀煇・柳軌。</ref>。[[律令]]の最初となったこの法典は、[[刑罰]]を軽くし、漢・魏の政令を整理し、[[儒教]]による秩序を重視した。『[[晋書]]』は『泰始律令』が人々の役に立ったと評価している。施政では[[農業]]生産を重視し、権限が重複する官職の統廃合を進めた。司馬炎は賈充の方針を評価した。一方、武官と文官の分離を徹底し、([[刺史]]などの)文官が兵士を持てないようにしようとする進言は容れられなかった。
 
[[泰始 (晋)|泰始]]6年([[270年]])、[[雍州]]・[[涼州]]で異民族の大規模な反乱が起き[[石鑒_(西晋)|石鑒]]が鎮圧に失敗すると、[[任ガイ|任愷]]は司馬炎に対し賈充を鎮圧に赴かせるよう進言した。しかし任愷はかねてから賈充を快く思っておらず、賈充もまた任愷を非難していたので、この進言は賈充を外地に出させるための讒言であったと考えられる<ref>もっとも、『晋書』によると、賈充はこれ以前に、外地で手柄を立てたいと望んだが、認められなかった事はあった。</ref>。賈充は送別の宴で[[荀勗]]と画策した。荀勗は[[恵帝_(晋)|司馬衷]](太子)の妃に賈充の娘<ref>最初に賈午が候補に挙がり、後に姉の賈南風に落ち着いた。</ref>を嫁がせれば、[[洛陽]]を離れる必要はないと助言した。さっそく荀勗が宴に戻り、賈充の娘を司馬衷に嫁がせるよう主張すると、[[荀顗]]と[[楊艶|武元楊皇后]]も賛同した。こうして婚姻が行われる事になり、賈充は洛陽に留まる事ができた。また、[[羊コ|羊祜]]も内密に賈充の赴任反対を奏上しており、司馬炎にそのことを知らされると、賈充は羊祜に対し「貴殿が徳に優れている事を初めて知った」と礼を述べた。
 
両者の確執は、賈充派と任愷派の派閥抗争にも発展した。賈充は任愷を帝との接触が少ない[[尚書]]に転任させ、司馬炎から遠ざける事で両者の離間を謀った。これにより任愷を失脚させる事に成功したという。また賈充は酒席で任愷派の庾純に、親の世話をせずに官職に就いている(儒教のモラルでは問題であり、泰始律令にも規定があったが、庾純は兄弟が辞職して世話をしていたので法的には問題なかった)事を当てこすった事があった。庾純は怒り「高貴郷公(曹髦)はどこにいるのか」と、皇帝殺害の責任を匂わせて非難した。庾純はのちに、酒が入った上での発言であったと謝罪し、結局辞職した。ただし、庾純にはそれ以上の処分はされなかった<ref>[[遼東郡|遼東]]太守の孫和([[孫和|孫権の子]]とは別人)や、[[広漢郡|広漢]]太守の鄧良([[鄧芝]]の子)が、母の介護を理由に辞職を願い出たが許されなかった先例も考慮された。</ref>。
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