「藤原惟成」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[紀伝道|文章生]]を経て、[[六位蔵人]]・[[式部省|式部少丞]]を歴任し、[[天延]]3年([[975年]])頃に[[従五位|従五位下]]・[[三河国司|三河権守]]に叙任される。師貞親王の[[乳母|乳母子]]であった関係によって早くからその身辺に仕え、親王の[[皇太子]]時代には[[東宮学士]]・[[侍読]]を務める。[[天元 (日本)|天元]]5年([[982年]])右少弁。
 
[[永観]]2年([[984年]])師貞親王の即位([[花山天皇]])に前後して従五位上に昇進し、左少弁兼[[五位蔵人]]に任ぜられる。花山天皇の信頼が篤くその側近として、[[天皇]]の叔父である[[中納言|権中納言]]・[[藤原義懐]]と並んで権勢を振るった。特に、破銭法(破銭忌避の禁止)・沽売法(物価統制令)・[[荘園整理令]]を始めとする「花山新制」の施行に当たっては、実務面において中心的な役割を担い、その権勢は世上'''五位摂政'''とまで称されたという<ref>『江談抄』</ref>。永観3年([[985年]])に[[検非違使|検非違使佐]]([[衛門府|左衛門権佐]])を、[[寛和]]2年([[986年]])正月には権左中弁を兼ね[[三事兼帯]]の栄誉に浴する。しかし、同年6月に発生した[[寛和の変]]によって花山天皇が退位・出家に追い込まれると、藤原義懐と共に自らもこれに従って出家し、政界から引退した。年齢は34歳。最終官位は権左中弁[[正五位|正五位上]]左衛門権佐。
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*惟成の家に[[文人]]の[[殿上人]]が集まった際、客人をもてなす準備の足しにするために売却できる家財が何もなかったため、市で餉(干し米)と交換して[[甘葛|甘葛煎]]([[甘味料]])を準備し、さらにそれを給仕する者もおらず、室に半物の格好をさせて給仕に出したという<ref>『古事談』第二 臣節「惟成清貧の事」</ref>。
 
*惟成が[[紀伝道|文章得業生]]で[[蔵人所]][[雑色]]を務めていた頃に花見があった際、各人がそれぞれ一種類の品物を持ち寄りその趣向を競う遊びに参加し、飯の担当となった。準備した物を下男に担がせて持参し、花見の場で取り出すと、その中身は飯を入れた長[[櫃]]2つ、鶏卵が入った外居(3-4本足のある円筒状の蓋付容器)1つ、擣塩が一杯に入った折櫃であった。集まった人々は惟成の準備した品物を見て感心して声をあげたという。その夜に惟成が室と同衾して手枕をしたところ、妻の下髪(髪を結って後ろに垂らした部分)が全部切られて無くなっていることに気づいた。惟成が驚いて理由を問うと、[[太政大臣]]([[藤原伊尹]])家の炊事担当の者との間で、髪と花見のための飯を交換して、長櫃も下男に担いで持ってこさせたのだと、妻は嘆き憂いた様子もなく笑いながら答えたという<ref>『古事談』第二 臣節「惟成の妻、内助の功の事」</ref>。
 
*惟成が清貧であった頃、その室は工夫を凝らして惟成に恥をかかせなかった。しかし惟成は仕えていた[[花山天皇]]が即位するに至り、それまでの室を離縁して新たに[[源満仲]]の聟となった<ref name="a">源満仲は花山天皇の退位を策謀した[[藤原兼家]]の家人であり同事件にも関与していることから自身の政治的立場の担保として惟成に接近していた可能性などが考えられるが、満仲との関係は『古事談』以外では未見となっている。</ref>。そのために元室は怒りを為して、[[貴船神社]]に詣でて「惟成をすぐに殺さず乞食にせよ」と祈った。百ヶ日参詣の間に室の夢の中で「惟成は今は非常な幸人であるので、どうしてすぐに乞食にできようか、少し準備することがある(ので少し待て)」との啓示があった。