「下総国」の版間の差分

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[[15世紀]]前半の[[永享の乱]]やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。結城氏は[[結城合戦]]で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も[[享徳の乱]]における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と[[亥鼻城|千葉]]から[[本佐倉城|佐倉]]に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。かわって下総生実城に寄った[[小弓御所]][[足利義明]]が勢威をふるい[[小田原城|小田原]]の[[後北条氏|北条氏]]と対抗した。[[1538年]]([[天文 (日本)|天文]]7年)と[[1564年]]([[永禄]]7年)の[[国府台合戦]]においてはじめに[[足利義明]]が敗死、また義明の後に台頭した[[安房国]]の[[里見氏]]が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた[[原氏]]、また[[高城氏 (下総国)|高城氏]]らが従属下に置かれるようになった。[[1590年]]([[天正]]18年)、[[豊臣秀吉]]の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と[[上杉氏]]や[[佐竹氏]]との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。
 
[[徳川家康]]の[[関東]]入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。それまた、豊臣秀吉かのうち比較的に規模が大きいの所領安堵を受けた結城氏は[[古河藩結城城]](最大16で11万石)、[[佐倉藩]](最大14.2万石)、[[関宿藩]](最大7.3万石)のみで<ref>徳川余を領して家康の入府当初、次男である[[結城秀康]]を養子に迎えて後を継[[結城城]]で11万石余を領していたが、[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]後に秀康が[[越前国|越前]]北庄(現・[[福井市]])に転封されて一旦廃藩なったのち名字も[[元禄松平氏]]と改め、結城城<ref>元禄年間に再置されてからの[[結城藩]]主はいずが再置さて、結城城再建されたものの、石高は明治維新まで1〜2.8万石規模であった。</ref>、その他の[[藩]]はいずも破却さも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短てしまものが多かった。ほかに[[幕府領]]や[[旗本]]領が入り組み古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合結城氏は事実上滅亡するようことに政治文化は醸成されなかった。近世初期[[1683年]](貞享3年)また一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]] - [[1643年]])に、下総結城氏[[葛飾郡]]から[[利根川]](現在祭祀自体は秀康[[江戸川]]下流)以西子孫地域を割き、1つである[[武蔵国]]の葛飾郡越前松平家|現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分姫路藩→前橋藩とした。国内の村数は[[天保松平家]]期には約1620か村を数えが行っ
 
それらのうち比較的に規模が大きいのは[[古河藩]](最大16万石)、[[佐倉藩]](最大14.2万石)、[[関宿藩]](最大7.3万石)のみで、その他の[[藩]]はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに[[幕府領]]や[[旗本]]領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期([[1683年]](貞享3年)また一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]] - [[1643年]])に、下総の[[葛飾郡]]から[[利根川]](現在の[[江戸川]]下流)以西の地域を割き、[[武蔵国]]の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は[[天保]]期には約1620か村を数えた。
 
[[1867年]]([[慶応]]3年)の[[大政奉還]]の時点で下総国内には[[結城藩|結城]]、古河、関宿、佐倉、[[高岡藩|高岡]]、[[多古藩|多古]]、[[小見川藩|小見川]]の8藩と幕府領、旗本領が置かれた。[[1868年]](慶応4年、[[明治]]元年)、[[江戸幕府|幕府]]が崩壊して[[明治政府]]が関東地方を制圧すると、下総国内の旧幕府領・旗本領は[[下総知県事]](佐々武直武のち水筑龍)の管理下に置かれた(一部は[[武蔵知県事]]または[[安房上総知県事]]の所管)。[[1869年]](明治2年)に下総知県事の管轄区域に[[葛飾県]]が置かれ、水筑龍が権知事となって1万3600石余を支配した。一方、1870年(明治3年)には従来の8藩のほかに[[曾我野藩]]が新たに置かれた。1872年(明治4年)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月に下総国内の各県が統合され、西半の9郡(結城、豊田、岡田、猿島、葛飾、相馬、印旛、埴生、千葉)に[[印旛県]]が成立し、東半の3郡(香取、匝瑳、海上)は[[常陸国]]の南半部とともに[[新治県]]となった。[[1873年]](明治6年)、印旛県は[[木更津県]]([[上総国|上総]]・[[安房国|安房]]両国を管轄区域とする)と合併して[[千葉県]]となり、[[1875年]](明治8年)に新治県が廃止されると南半の下総国3郡が千葉県に編入され、逆に(旧)千葉県管下で[[利根川]]以北の区域(結城、豊田、岡田、猿島の4郡および葛飾・相馬両郡の一部)が茨城県に編入された。また同時に、葛飾郡のうち[[江戸川]]以西の区域が[[埼玉県]]に移管された<ref>埼玉県は既に武蔵国葛飾郡の北半部を管下に置いている。</ref>。この結果、下総国は茨城・千葉・埼玉の3県に分割された<ref>埼玉県に編入された下総国葛飾郡は[[中葛飾郡]]となったのち、武蔵国葛飾郡北半を以て編成された[[北葛飾郡]]に編入された。これは下総国であった区域が武蔵国に編入されたことになるので、通常、埼玉県は全域が武蔵国であったとして扱われる。</ref>。
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