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[[徳川家康]]の[[関東]]入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。また、豊臣秀吉から所領安堵を受けた結城氏は[[結城城]]で11万石余を領して家康の次男である[[結城秀康]]を養子に迎えて後を継がせていたが、[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]後に秀康が[[越前国|越前]]北庄(現・[[福井市]])に転封されると、名字も[[松平氏]]と改め、結城城<ref>元禄年間には[[結城藩]]が再置されて、結城城も再建されたものの、石高は明治維新まで1.8万石であった。</ref>も破却されてしまい、結城氏は事実上滅亡することになった(結城氏の祭祀自体は秀康の子孫の1つである[[越前松平家|(姫路藩→前橋藩)松平家]]が行った)。
 
それら結城氏の移封後、下総国の諸藩のうち比較的に規模が大きいのは[[古河藩]](最大16万石)、[[佐倉藩]](最大14.2万石)、[[関宿藩]](最大7.3万石)のみで、その他の[[藩]]はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに[[幕府領]]や[[旗本]]領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期([[1683年]](貞享3年)また一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]] - [[1643年]])に、下総の[[葛飾郡]]から[[利根川]](現在の[[江戸川]]下流)以西の地域を割き、[[武蔵国]]の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は[[天保]]期には約1620か村を数えた。
 
[[1867年]]([[慶応]]3年)の[[大政奉還]]の時点で下総国内には[[結城藩|結城]]、古河、関宿、佐倉、[[高岡藩|高岡]]、[[多古藩|多古]]、[[小見川藩|小見川]]の8藩と幕府領、旗本領が置かれた。[[1868年]](慶応4年、[[明治]]元年)、[[江戸幕府|幕府]]が崩壊して[[明治政府]]が関東地方を制圧すると、下総国内の旧幕府領・旗本領は[[下総知県事]](佐々武直武のち水筑龍)の管理下に置かれた(一部は[[武蔵知県事]]または[[安房上総知県事]]の所管)。[[1869年]](明治2年)に下総知県事の管轄区域に[[葛飾県]]が置かれ、水筑龍が権知事となって1万3600石余を支配した。一方、1870年(明治3年)には従来の8藩のほかに[[曾我野藩]]が新たに置かれた。1872年(明治4年)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月に下総国内の各県が統合され、西半の9郡(結城、豊田、岡田、猿島、葛飾、相馬、印旛、埴生、千葉)に[[印旛県]]が成立し、東半の3郡(香取、匝瑳、海上)は[[常陸国]]の南半部とともに[[新治県]]となった。[[1873年]](明治6年)、印旛県は[[木更津県]]([[上総国|上総]]・[[安房国|安房]]両国を管轄区域とする)と合併して[[千葉県]]となり、[[1875年]](明治8年)に新治県が廃止されると南半の下総国3郡が千葉県に編入され、逆に(旧)千葉県管下で[[利根川]]以北の区域(結城、豊田、岡田、猿島の4郡および葛飾・相馬両郡の一部)が茨城県に編入された。また同時に、葛飾郡のうち[[江戸川]]以西の区域が[[埼玉県]]に移管された<ref>埼玉県は既に武蔵国葛飾郡の北半部を管下に置いている。</ref>。この結果、下総国は茨城・千葉・埼玉の3県に分割された<ref>埼玉県に編入された下総国葛飾郡は[[中葛飾郡]]となったのち、武蔵国葛飾郡北半を以て編成された[[北葛飾郡]]に編入された。これは下総国であった区域が武蔵国に編入されたことになるので、通常、埼玉県は全域が武蔵国であったとして扱われる。</ref>。