「王鎮悪」の版間の差分

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前秦の[[河東郡 (中国)|河東郡]][[太守]]の王休の子として生まれた。[[385年]]、[[苻堅]]が敗れて、[[関中]]が混乱すると、鎮悪は崤底と[[ベン池県|澠池]]の間を流寓した。ときに澠池の李方の家に寄食し、「英雄の主に巡り会って、万戸侯となったときには、恩に報いる」と誓った。後に叔父の王曜に従って東晋に帰順し、[[荊州]]に客居した。鎮悪は諸子の兵書をよく読み、軍国の大事を論じたが、騎乗は得意でなく、弓の引きも弱かった。謀略や合従連衡において、その決断力を示した。
 
[[409年]]([[義熙]]5年)、[[劉裕]]が[[南燕]]を攻撃し、[[広固]]を包囲すると、ある人が鎮悪のことを劉裕に推薦した。このとき鎮悪は[[天門郡]]の[[桑植県|臨澧]]県令をつとめていたが、劉裕に召し出されて赴いた。劉裕と語り合って気に入られ、[[青州 (山東省)|青州]]治中従事史・行参中軍太尉軍事・前部賊曹となった。[[410年]](義熙6年)、[[盧循]]を浦で阻み、連戦して戦功を挙げ、[[寿光市|博昌県]]五等子に封じられた。[[412年]](義熙8年)、劉裕が[[劉毅 (東晋)|劉毅]]を討つにあたって、鎮悪は参軍事となり、振武将軍の号を加えられた。鎮悪は100隻の戦艦を率いて先発し、[[長江]]を遡って豫章口に上陸した。[[荊州区|江陵城]]の東門から討ち入って放火し、劉毅の部将の趙蔡を斬った。劉毅を自殺に追いこみ、江陵を平定した。
 
鎮悪は中兵を代行し、安遠護軍・武陵国内史として出向した。劉毅を討った功により、[[漢寿県]]子に封じられた。五渓蛮の向博抵が阮頭を拠点に反抗していたため、鎮悪はこれを攻撃して鎮圧した。[[415年]](義熙11年)、劉裕が荊州[[刺史]][[司馬休之]]を攻撃すると、鎮悪は司馬休之の部将の朱襄を斬った。江陵を司馬休之に奪われたため、劉裕の怒りを招いたが、鎮悪は得意の弁舌を振るって許しをえた。司馬休之と[[魯宗之]]が襄陽に逃れると、鎮悪は蒯恩らの諸軍を率いて水路でこれを追った。司馬休之らが[[後秦]]を頼って逃れると、鎮悪はさらに追撃して、国境に達して帰還した。游撃将軍の号を受けた。