「褚裕之」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
 
== 経歴 ==
褚爽([[褚裒]]の子の褚歆の子)の子として生まれた。はじめ琅邪王[[恭帝 (東晋)|司馬徳文]]の下で太宰参軍をつとめた。[[劉裕]]の下で車騎参軍事となり、司徒左西属に転じた。中軍諮議参軍となり、中兵参軍を代行し、建威将軍の号を加えられた。[[409年]]([[義熙]]5年)、[[南燕]]に対する北伐に参加した。[[410年]](義熙6年)、[[盧循]]が浦を攻撃してくると、裕之は奮戦して功績を挙げた。盧循が嶺南に逃走すると、裕之は劉裕の命により[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]の任を代行した。そのまま都督交広二州諸軍事・建威将軍・領平越中郎将・広州刺史に任じられた。[[桓玄]]の一族の桓開山が手勢を集めて広州襲撃を計画したが、裕之が事前に察知して桓開山を討った。[[412年]](義熙8年)、盧循の残党の劉敬道が[[交州]]を訪れて降伏を願い出た。交州刺史の[[杜慧度]]が事情を裕之に知らせると、裕之は劉敬道が命惜しさに降伏してきたものとして信用せず、処刑するむね朝廷に報告させた。杜慧度が防備を怠っていたため、劉敬道は亡命者を集めて[[九真郡]]を攻撃し、太守の杜章民を殺害した。杜慧度は劉敬道を討って反乱を鎮圧した。裕之は杜慧度により奮揚将軍の号に落とされ、前の失態を朝廷に報告された。御史の糾弾を受けたが、詔により原官のまま据え置かれた。
 
劉裕が[[劉毅 (東晋)|劉毅]]を討つと、裕之は3000人を派遣して[[荊州]]の平定に参加させた。裕之は広州在任4年のあいだに賄賂を受け取って私財を蓄えており、そのため罪に問われて免官され、終身の禁錮を命じられた。[[建康 (都城)|建康]]に帰ると、面会を求める旧知や一見の人々の贈物が引きも切らなかった。まもなく太尉諮議参軍となり、相国右司馬をつとめた。[[420年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]元年)、劉裕が帝位につくと、裕之は右衛将軍の号を受け、番禺県男に封じられた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。[[422年]](永初3年)、使持節・監雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽義陽新野隨六郡諸軍事・征虜将軍・[[雍州]]刺史として出向し、寧蛮校尉・襄陽義成郡太守を兼ねた。[[424年]]([[景平]]2年)、死去した。享年は44。